「もう…戻ってきたらだめだよ」
少女はこくりとうなずく。
──帰ラナイデ…。僕ヲオイテイカナイデ──
「ありがとう…」
青い光があふれる。
──イカナイデ。コノママ僕ノソバニイテッ!──
少女の隣に漂っていた球はぱちんとはじけた。少女は光と共に姿を消した。傍らの時計と共に。もう彼女のときがとまることもないだろう。そう、ここに彼女が来ることはもうない。
コチッ…
ぼくの時計がひとつ針を進める。
ときのとまってしまったこの空間で、ぼくのときが進むことができる唯一の瞬間。
心地よい音。この一瞬にだけ、ぼくは自分が生きているということを実感する。
真っ白な光に満たされた場所。そこにもう一人のぼくが眠っている。雪のような白い幹の大木に身体を同化させ、ぼくの器は眠っている。
白い手足。閉じられたままの双眸。その瞳が再び開かれることはもうない。決して。
もっとたくさんのものが見たかった。もっと多くのものが聞きたかった。
望んだのは、こんなことじゃなかったはずなのに…。
気づいたときには、もう遅かった。すべてが。
あふれくる涙。
この身体でもう一度大地を感じたい。木々を揺るがす風を。生き物たちの息吹を。ここにはないもの。ぼくがもう二度と触れることができないもの…。
でも──こうなることを選んだのは自分。こうなることを願ったのは自分。その先にあるものを考えることもせず、ただ、その場を逃げ出すために。
この空間に来てからどのくらいのときがたっただろう。気が遠くなるような進まぬとき。
現実がつらくて。心が痛くて。生きていくことが悲しくて。人を傷つけ、自分も傷つき、明日に向かって歩むことが怖くて…。
そうして、ぼくはここに来た。
最初、ここは何には何もなかった。いるのはぼくだけ。そんな空間で、ぼくはこの大木を見つけた。光に満たされた空間で、真っ白に輝くこの木を──。
──お前は何を望む──
ふとぼくの頭に語り掛ける声がした。
ぼくにはなぜだか、その声の主が白幹の大木だとわかった。
──ぼくはこのままここにいたい。もうあの世界には戻りたくない──
──なぜ──
──もう嫌なんだ。人を傷つけるのも、傷つけられるのも──
──そうか…。だが、ここにいることを望めば、もうお前のいた世界に戻ることは叶わぬぞ──
──かまわない。ぼくはもうあの世界には戻りたくない──
──決して後悔せぬな──
そのときは思ったんだ。元いた世界に戻らずにすむのなら、と。ぼくの願いはそれだけだった。もう、元の世界には戻りたくなかったんだ…。
全てを捨てたんだ。家族も。友も。今までの自分自身も、何もかも。
ぼくはもう、帰ることは許されない──
失った後に気づいた大切なもの。現実。だけど、ぼくにはもう許されないんだ。帰ることは。ぼくは永遠にここにいることを望んでしまったから。ぼくの器は決して再び瞳を開くことはないから…。
永遠にここに逃げ込んできた魂たちを、元の世界に返しつづけるだけ。二人目のぼくをつくらないために。
ぼくがここに来てから、たくさんの人がここに来た。重い現実に堪えられなくなって。一部の人はどうしても元の世界に戻ることを拒んだ。その結果、彼らは壊れた時計となった。二度と動かぬ時計に。
そんな時、ぼくは自分の無力さに虚しさを覚える。これ以上、自分と同じ人を生まないためにぼくはここにいるのに。それなのに、ぼくはどうすることもできなかったのだから。ここにいることを選んだ先には、未来も希望もないと知っているのに。自分の前にあったはずの道は、もう決して見ることができなくなってしまうのに。
だけど、それとともにぼくはどこかでほっとしている。
自分と同じ人間が生まれたという事実に。どこかで…。
そんな自分の心に気づき、そのたびにぼくは呆然とする。
けれども、多くの人は帰っていった。ぼくをここに残して。ひとり、ここに残して。
――帰ラナイデ……――
――ボクヲ残シテ行カナイデ――
そのたびに、ぼくのどまででかかった言葉を飲みこむ。
ここにいることを望んだのは紛れもない自分自身。
逃げることは悪いことではない。ただ、逃げたままではいけない。辛かったら辛いことから逃げてもいい。逃げちゃいけないなんて、そんなの辛すぎる。悲しかったら、苦しかったら逃げればいい。だけど、いつかは帰らなくちゃいかないんだ…。
だけどぼくは逃げたままだった。辛いことから逃げたまま。元の世界に帰ることを拒んでしまった。
スゥ…
大木の木の葉が光を増す。
またひとつの魂が迷い込んだ…。
ぼくはため息をつき、天を仰ぐ。
真っ暗な空を──。
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