蒼穹への扉
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さくら咲くころ

 
 
 
「うわあ…やっぱりきれい!」
 町を見下ろせる裏山に登ったさくらは、一本の大きな桜の木の下で天を仰いだ。
 視界いっぱいに桜が広がる。
 滅多に人が入ることもなくなった裏山で、この桜の木を見つけたのは去年のことだった。
 人から忘れられたように悲しげに、けれども精一杯花を散らす桜の姿に心惹かれ、さくらは幾度もここへ足を運んだ。
 暖冬のせいでちょっと早めの春を迎えた今年は、例年よりも一週間ほど早く花を咲かせていた。そのため、さくらが訪れたときには、すでに八部咲きになっていた。
 春らしい爽やかな風が吹き抜けるたびに、桃色の花びらが宙を舞う。ひらひらと舞い落ちる花びらをてのひらで受け止め、さくらは満足そうにそれを舞い散らした。
 と、そのときくすくすと笑う声を耳にして、さくらは辺りを見回した。
 すると、桜の木を挟んで彼女がいる位置とはちょうど反対側、木の影から少年が顔だけをのぞかせた。
「ひ、人のこと、隠れて笑うなんて、最低よ」
 自分以外に人がやってくるとは思いもしなかったから、驚きのあまり声が少し上ずった。それを隠すように、さくらはきっと少年をにらめつける。
 ところが、少年はさくらの言葉を聞くと、詫びるどころか驚いたように顔を上げた。
「何?」
「――……」
 少年は目を見開いたまま、その場に呆然と立ち尽くす。
「何よ。人のことじろじろ見て」
 もう一度さくらはぐいと少年をねめつけた。
「――驚いた」
 少年の第一声を聞いて、さくらは眉をひそめる。
 驚いたのはこちらのほうだと、内心思っていると、少年はようやく木の影から姿を現した。
「!」
 思わず息を呑む。
 古の物語で見るような真っ白な装束。そして後ろで束ねられた長い髪。風が吹くたびにふわりと背中で揺れている。その姿はあまりにも現実離れしていた。
「君はだれ?」
 少年の言葉にさくらははっと我に返った。
「わ、私はさくら……」
「さくら?」
 少年は愉快そうに傍らの桜の木を見上げた。
「こいつと同じ名だね」
 そう言うと、手招きして自分の隣を指差した。
「こっちへおいでよ」
 少年の誘いに、さくらは怖さ半分好奇心半分近づくと、その隣に腰を下ろした。
「そんなに怖がらなくたって大丈夫だよ。何もしないから」
 彼女の様子を見て、少年は小さく笑った。
「――あなた、何なの?」
 気を取り直してさくらは問うた。
「ん?」
「そんな格好して。あなたはどこの人? 何かお祭りでもあるの?」
「お祭り? ああ、そうか。この姿は珍しいんだっけ」
 少年は立ち上がると桜の幹をぽんと左手で叩いた。
「僕はね、桜」
「?」
「僕は桜。この桜の木だよ」
 少年が言っていることがいまいち理解できず、不思議そうな顔をしているさくらを見て、少年は再びくすくすといたずらっぽそうに笑った。
「僕はこの桜を守る者。桜は僕。そして僕は桜。生死をこの桜の木とともにする者。――普通の人間には見えないはずなんだけどね、時々君のように僕のことが見えちゃう人がいる」
「――どういうこと?」
「君は貴重な存在、ってことだよ」
「ふうん……」
「ほかに質問は?」
「――なんだかわけが分からなくなっちゃったから、もういいわ」
 二人は顔を見合わせると、思わず笑いがこみ上げてきた。
 暖かい陽光が優しく二人を包み、穏やかな風が桜を舞わせる。
 時が止まったようなその空間を、さくらはそれ以来何度も訪れた。そのたびに彼は姿を現し、多くのことを教えてくれた。
 昔のこと、命を育む森のこと、さえずる小鳥たちが交わすおしゃべり、夏の天の川のこと、秋の美しい紅葉のこと――そして、桜のこと。
 どれも、学校では決して教えてくれないことばかりだった。
「人は忙しすぎて、僕らを見上げるゆとりを失ってしまっている。やがて僕らは忘れられていく存在なのかもしれないね」
「そんなことないわよ」
 悲しげに呟く彼の言葉をさくらは打ち消した。
「他の人が忘れても、私だけは絶対に忘れない」
 だって、私の名はさくらだもの、そう言って彼女は笑った。
 そんなさくらを少年はまぶしそうに見る。
「さくらが僕を見ることができたわけ、わかるよ……」

*          *

「今日、君以外の人間に会ったよ」
 そう少年が告げたのはすでに桜の花が満開を過ぎたころだった。
「君のように、僕の事は見えなかったみたいだけど」
 ああ、それでそんなに浮かない顔をしているのね、とさくらは少年の近くに寄った。
「今年の春は最高だったよ。君に会えて。もうこれで思い残すことはないな」
「何言っているのよ。来年だって、再来年だって、これから毎年会いに来るわよ」
「いや……今年が最後、かな」
「どうして?」
 少年は瞳をそらし、小さく息をつくと曇り空を仰いだ。
「ここ――開発されるんだよ」
「え?」
「開発されて住宅地になるんだって」
「そん……な……」
 残念だな、と他人事のように少年は呟いた。
 そして、ずいぶん前から何度かここに人間がやってきては、何やら調べて帰っていくことがあったことを告げた。
「そんなの……ひどすぎる……ひどすぎるわっ!」
 悲しみと怒りが交じり合った気持ちで叫ぶさくらをなだめると、少年はふわりと笑った。

 
 
 
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