「おれは、帰りたい…ん…」
涙がこみ上げてきた。
帰りたいんだ。村に。家族のもとに帰りたいんだ。
そのために逃げてきたんだ。命懸けで逃げてきたんだ。
「ありがとう」
アネットの白く柔らかい手がシスヤの頬に触れた。
「もう、いいのよ…」
優しい声がシスヤを包む。
「あなたをご家族のもとに帰してあげる」
「ほん…とう?」
にっこりとアネットは笑って頷いた。
「本当よ。きっと帰してあげる」
ちょっと、待っていて、と告げると、アネットは松葉杖をついて地下室から出ていこうとした。そうしてドアの所で立ち止まる。
「──二人を呼んでも構わないかしら?」
シスヤは内心どきりとしながらも、微かに頷いた。
五分後──地下室には、シスヤとアネットに加えて、呼ばれて来たクイントとタキトがいた。
中央にトルキアの地図を広げ、それを囲むように四人は腰を下ろす。
「この村の位置はここだ」
クイントがトルキア北東部の一部を指さす。
「シスヤの村の名は?」
「──トゥーサ」
少し躊躇ったあと、それでも、シスヤははっきりと自分の村の名を告げた。
「え…?」
思わず聞き返す。
「トゥーサだよ」
再びシスヤははっきりとそう言った。
「知ってる?」
「え、ええ…」
アネットの心臓がばくんと鳴った。クイントとタキトの顔が強張る。
身体が震えた。
どうして、どうしてよりによってトゥーサなの…。
シスヤの瞳は期待で満ちている。
疑いのない瞳。
自分の願っていることががきっと叶うと信じて疑わない──瞳…。
シスヤのまっすぐな眼差しに堪えられなくなって、アネットは視線を落とした。
何といえばいい?
この子は信じている。未だ自分の生まれた村があるということを。そこに家族がいるということを。
だけど…。
「トゥーサ」──アネットは心の中で反芻する。
あの村は──。
この村からさらに北へ四十キロほど言ったところに谷がある。トゥーサはその谷底にある集落、いわゆる谷底集落であった。一年の多くを霧で包まれ、まるで龍でも住んでいそうなところ。故に別名「龍の住む村」とも言われていた。
人口二百人ほどの本当に小さな村であると聞いたことがある。
しかし、一月ほど前のことである。
村が襲われた、という知らせが伝わってきた。村は壊滅状態になり、多くの者が殺された、と。耳を覆いたくなるような噂が流れる。老人も女も殺された。そして子どもは連れていかれた、と。
理由は分からない。ただ、運良く生き残った者が言うには、村を襲った者たちは「見せしめだ」と言ったという。
(まさか…)
アネットは唇とぎゅっとかんだ。
シスヤが…。
ぶんぶんと首を振る。
考えたくない。そんなこと──考えたくない。
「アネット?」
シスヤの呼びかけに、はっと我に返る。
「おれの村…は?」
みるみるうちに青ざめていくシスヤの顔。アネットの反応に、嫌な予感を感じた。何とも言えぬ不安が彼の心中を侵していく。
「おれの村はどうなったんだ?」
教えてくれ、と詰め寄る。
アネットは答えられない。顔を背けたまま押し黙っている。
「教えてくれ、おれの村はっ」
「──トゥーサはもうない」
シスヤの左隣に座っていたクイントが真実を告げた。抑揚のない渇いた声で。
「え…」
シスヤの腕から力が抜ける。
「う…そ…だ」
三人は何も答えない。
「うそだ、うそだ、うそだっ」
シスヤは泣き叫ぶ。
うそだ、村がもうないなんてそんなのうそだ。
そんなこと、信じられない。
そんなこと、考えたくない。
「──ごめんなさい…」
アネットは顔を覆う。
おれの帰るところ。おれの家族。おれの…。
だけど。
シスヤは胸に手をやる。
「わかって…いた…はず…だ…」
嗚咽を上げながら、呟く。
わかっていたはずだ。自分が逃げ出したらどうなるか。自分が逃げたことで、あいつらはどういう行動に出るか。
今までも見てきたはずだ。逃げ出したやつがたどる末路を。
それなのに。
それなのに、おれは。
「帰りたかっただけ…なのに…」
会いたかっただけなのに。
そんな些細な願いも──叶えられない。
「おれがしたことは間違っている…の?」
アネットは首を振る。口に手を当てたまま首を振る。
「おれが願ったことは間違いだったの?」
「──そんなこと、ない」
タキトが強く否定した。
「お前が望んだことは間違いじゃない。お前がしたことは間違いじゃない」
「じゃあ、なぜっ。なぜこんなことになったんだ」
運が悪い?生まれた時代が悪い?生まれた場所が?
どうして?
シスヤは泣きながら問いかける。
「おれはっ、どうしたら…い…い」
「お前は──どうしたいんだ」
逆にクイントが問う。
「お前はこれからどうしたい。何をしたいんだ?」
おれは…。
復讐をする?──否。復讐を試みたところでかなう相手ではない。
村に帰る?──否。帰っても、もう誰もいない。
あそこに帰る?──否。帰れば二度と生きては出られない。 |