伊吹の心の闇の部分を知っても、なおそれを含めて受け止めてくれた小夜。
なんて強いのだろう。
なんてきれいなのだろう。彼女の心は。
伊吹がいままで出会った誰よりも彼女は優しく、そして温かい。深い闇に覆われてしまい、嘆くことしかできなかった自分の心を救ってくれた……。
でも、だからこそ、彼女をこのままにしてはおけなかった。
自分の心の恩人だからこそ……。
(小夜はここに来てはいけないんだ……もう…・・・)
それが何を意味するか、伊吹にはよくわかっていた。
己がこれからしようとしていることを、実行に移せば、またひとりになってしまう。そしてもう永遠に彼女とは会うことができなくなってしまうだろう。
――だが、この日がいつか来るということはわかっていたはずだ。
いつかの女性のように、彼女をここに残して自分が出て行くか。それとも彼女を拒絶し、自分がこのままここに残るか……。共にここを離れることは決してできぬことなのだ。どんなに願っても、決して叶えられないことなのだ。
(ぼくは……小夜をここに残していきたくはない……)
彼女を残して、代わりに自分が外に出たとしても、決して幸せになることはできないだろう。瑠璃のときのように、深い後悔に苛まされるに違いない。そして、絶望のどん底から再び這い上がることは、今度こそできないだろう。
伊吹は、頬を擦ると、立ち上がった。
小夜をこの空間から遠ざけるためにすべきことはただ一つ。
彼女の身にこれから何が起こるのか、わからせることだけだ。
二
「小夜、こっちに来て!」
「痛い、伊吹……」
いままで泣いていた少年とは思えないほどの強い口調。いつもの伊吹からは考えられない。そして強い力。
小夜の手首を掴んだまま、彼が向かった先は、銀色の大樹のもとだった。
相変わらず大樹はとても美しく、そして、そこにある一つ一つの球もまた綺麗だった。
大樹のすぐ下まで来ると、伊吹はようやくそこで小夜の手を放す。強く握られていたせいで、小夜の手首はうっすらと赤くなっていた。
その場所には不似合いな厳しい表情で伊吹は叫んだ。
「小夜、君はもうぼくのところにきちゃいけない!」
「――?」
「――教えてあげるよ。君の村の巫女がどうして君を次代の巫女にこんなにも急いでしようとしているのか!」
「!」
ざわり、と銀の樹が揺れた。まるで、これから伊吹が言わんとしていることをとめるかのように。だが、伊吹はかまわずに続けた。
「僕が伝えたんだ! このまま…このまま君は村にいることはないって!」
突拍子もない伊吹の言葉。
「な…に……?」
自分がここに来てはいけない理由と、急遽決まった巫女の交代がどうして関係あるのか、小夜にはまったく理解ができなかった。
自分は村にずっといるつもりだ。いや、村の外に出て行こうとしても、それはどだい無理な話なのだ。
もちろん、村人の中には村を出て行こうとするものも、まったくいないわけではない。
いや、それよりも村人であるならば、誰もが一度は夢見るのだ。商人たちから伝え聞く都のようす。蒼い空に映える朱塗りの美しい建物、きらびやかな人々の衣、唐(から)からわたってきた珍しい品々があふれる市を。
桃源郷のような姿を目にしたい、そこで自分も成功するのだと村を出て行くものも皆無なわけではない。特に若い者たちほど、外の世界への憧れは強く、年に一人二人と出て行く者がいるのも事実だ。
しかし、小夜には村を出て行くなどといった選択肢は用意されていない。もちろん、彼女自身が強く望めば道は開けるかもしれない。
だが、小夜は村を出て行くつもりなど毛頭なかったし、そもそも物心ついた頃から村にいて、村で育ったのだ。村がとても愛しいし、そこに住む村人たちも愛しい。
あえて彼らを捨ててまで都に行こうとは思わなかった。なによりも、森で道を失った彼女を助けてくれた養父を置いて村を出ることなどできようか。小夜はそこまで薄情にもなれない。
このまま村でおばばの跡を継いで巫女になり、やがてはおばばのように後継者を育て…いつまでも安らかに村で暮らすことになるだろう。そう思っていたのだ。
だから、伊吹の口から出たことは、まったくもって小夜にはぴんとこないものだった。
「――小夜は……村を去る。それが運命……」
「私が? なぜ?」
他人事のように思える言葉。
小夜はあきれたように伊吹に問うた。
しかし、伊吹はとてもまじめな顔で首を横に振ったのだ。「答えられない」と。
「理由がわからないんじゃ、私は伊吹の言葉を信じようにも信じられない」 |