蒼穹への扉
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 辛かった。
 惨めだった。
 どうして自分はこんなことをしてまで生きていなくてはならないのかと、己の運命をのろった。
 そうして、自分を置いて早逝してしまった両親と姉を恨んだ。
 せめて両親のうちどちらかでも生きてさえいてくれれば、自分はこんな思いをしなくてもすんだはずだ。
 なのに、二人は生前のように仲良く同時に逝ってしまった。
 自分には何も残さずに。
 いつしか伊吹の手はあかぎれでがさがさになり、手足は土ごぼうのように細くなっていた。愛らしかった桃色の頬はやせこけ、目だけが爛々と光っていた。口数は少なくなり、愛想もない伊吹のことを、同じ下働きの者たちも次第に避けるようになっていた。
伊吹自身も人との関わりを自ら絶つようになり、やがて村長の家の中でも、孤立するようになっていた。
「ぼくは、もうどうでもよくなっていた。いつ死んだってかまわない、そう思っていたんだ。だって、大切な人たちはもうこの世にはいなかったし、生き延びなくちゃいけない理由もなかったから」
 とても辛そうな伊吹の表情が、ふっと緩む。
「でも、そんなぼくはあるとき、一人の女の子に出会ったんだ。――ぼくの心の氷を解かしてくれた……大切な…人……」
 瑠璃、と愛しさを込めて名をつぶやく。
 伊吹が瑠璃と出会ったのは、伊吹、十五の秋のある晴れた日――。みごとに色づいた紅葉の葉が人の心を和ませる季節のことだった。
 その日、伊吹は隣村まで使いを頼まれていた。
 隣村へ行くためには、山道を通らなければならない。大人の足でも、片道半日ほどはかかってしまう。だが、伊吹に与えられた時間は一日。無茶なことを、と周りの者は眉をひそめたが、主人が命じればそれに逆らうことはできない。
 「かわいそうに」――同情の言葉は聞こえても、己をかばってくれる者は誰一人としていなかった。
 伊吹を弁護すれば、代わりに自分が行かされることになるであろうことが、それまでの経験で分かっていたから。
(もう――慣れた……)
 こんなことにも、もう慣れた。誰だって自分が一番かわいい。
 ましてや愛嬌もない自分の代わりになってやろうという奇特な者などいるわけがなかった。
「絶対に日暮れまでに帰ってくるんだ。いいな」
 大きな風呂敷包みを手渡され、伊吹はこくりと頷くしかなかった。
 そして当日。伊吹は前日、床に就くのが遅かったのにもかかわらず、朝はいつもより少しだけ早く起き出した。
 まだ眠い目をこすりながら、そろりそろりと着替えを済ませる。
 周りでは同じような境遇にいる者たちが、まだ寝息を立てて、つかの間の休息につかっていた。
 音を立てぬよう気をつけて外へ出ると、空はまだ暗かった。西の空では満月がまだぼうっと頼りなげな光を放っている。
 この季節、さすがに早朝ともなれば気温が低くなってきている。伊吹がはあと吐いた息は白い湯気となり、消えていった。
 その中を伊吹は急ぎ足で隣村へと向かった。
 主人より言い付かった大切な届け物。中身が何だかはわからなかったが、「お前の命より高価なものだ」とだけ言われていた。だから、どんなことがあっても、無事に届けなくてはならない。
 山道を小走りで駆け抜けて行く。
 周りはすっかり秋色に染まっており、美しい姿を見せていたが、伊吹には景色を楽しむ余裕すらなかった。息を切らして先を急ぐ。
 その甲斐あって、どうにか太陽が南中するだいぶ前に何事もなく隣村へとつくことができた。大切な荷物もきちんと相手に届け終えることができた。
 「ご苦労様」の言葉と共に、優しそうな女性が伊吹に握り飯をくれ、帰り道に食べるようにと饅頭までくれた。
 のんびりと休むひまも無く、伊吹は村への帰途につく。朝、日が昇る前に出発したおかげで、どうにか日暮れには村に戻ることができそうだった。
 途中、もらった饅頭を頬張りながら、少しだけ周りの景色を楽しむ。帰り道は行きとは異なり、心にも余裕ができていた。
 しかし、あと少しで村、というところまで来たところで、空が急に薄暗くなってきた。
 あ、と思ったときには遅かった。
 ザアアアア…
 突然降り出した雨。
 そして激しい稲光。
 ずぶぬれになりながら、伊吹は雨宿りの場所を探した。
 鳴神が光るたびに、首を亀のように縮こませた。
 ようやく見つけた大きな岩。崖から転げ落ちてきた岩が、その下で重なり合っていた。
 伊吹はうまい具合にできていた岩の隙間に入り込むと、ひざを抱えて座り込んだ。
 ここならば雷に打たれることも、雨に濡れることもないだろう。
 だが、このまま雨が降り止むのを待っていたら、日暮れ前に村につくのは難しい。けれど、激しい雨の中に出ていくのはためらわれた。
 もう少し待ったらやむかもしれない。そんなことを思いながらあと少し、あと少しとしているうちに、あっという間に日が暮れてしまった。
 だが、雨はいっこうにやむ気配を見せない。
――絶対に日暮れまでに帰ってくるんだ――
 主の言葉がよみがえる。
 約束の時間はとうの昔に過ぎてしまった。これから心を定めて走り帰ったところで、村につくまでには今しばらく時間がかかる。
 どんなに辛い罰を与えられるだろう。
 食事を抜かれるだけでは済まないに決まっている……。
どうしたらいいものか……。悩んでいるうちに、気づけば、あたりは夜の闇へと姿を変えていた。
 明け方の闇は、これからどんどん光が満ちていくことがわかるから、恐怖心もそれほど大きなものではなかった。だが、今は違う。
 これからは闇の時間。
 ただでさえ人気のない山の中。
 大地を叩く雨の音。ザアアと揺れる木々。
 雨を避けるために岩の間に入り込んだのに、いまや恐怖のためにそこから出て行くことができない。
 心細くなった伊吹はその場でしくしくと泣き始めた。
 自分だけが取り残されてしまった気がした。
 自分だけがひどく惨めな気がした。
 ――どうして自分はこんなになってまで、生きているんだろう……。
 虚しくなって、伊吹はその場で一人、泣き続けた。

 
 
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