蒼穹への扉
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 ひざを折り、泉を覗き込む。しかし、そこに鈴の姿は見当たらない。
小夜(さよ)はそっと泉に両手を差し入れた。
 決して冷たすぎることはなく、かといって生ぬるいわけでもない。
 小夜はためらうことなく、その水をすくって口元へ持っていった。ゆっくりと泉の水でのどを潤した。
 コクリ……
 ほどよい冷たさの水が、身体の隅々まで行き渡っていく。疲れ果てた小夜の身体を癒すように、水は優しくしみわたっていった。
「おいしい……」
 思わずそう言葉が出た。
 だが、もう一度すくって飲もうとは思わなかった。それは――
「あ……れ……」
 ぽたりとの涙が手の甲に落ちた。小夜ははじめ、それが何か気づかなかった。
 そしてもう一滴。
 小夜はそこではじめてそれが己の涙だということを知った。
 自分は泣いている――そう認めた途端、心の奥が熱くなり、視界が霞んだ。次から次へと涙があふれてきた。
 どうして――どうして自分は泣いているんだろう。
 どうして涙が出てくるんだろう。
 自問しながらも、心のどこかでその理由を小夜は分かっていた。
 真っ暗な暗闇。
 前も後ろも分らない。
 どんなに叫んでも、叫びは闇に吸い込まれていく。
 誰も答えてはくれない。
 何もかもが虚しくなるような空間。
 自分の存在さえも不確かになってしまう。
 抜け出したいのに出口が分らない。
 ――怖かった…… 
 そう、怖かったのだ。
 自分の全てを否定されてしまうような闇が。
 小夜だとてただの暗闇ならば、いつも見なれている。夜が来れば必ず闇はやってくるのだから。だが、その闇は今ここで小夜が感じた闇とは明らかに質が異なるものだ。
 夜訪れる闇は、どこか優しい。疲れた心を癒し、明日からまた新たな気持ちで生きていくための力をくれるものだ。
 闇の中でも、どこかに自分を導いてくれる優しい光がある。それが夜の闇だ。
 だが、ここにある闇は違う。何もかもが違うのだ。
 優しさはない。
 疲れた心を癒してくれることもない。
 あるのは強烈な威圧感。己の存在を否定されてしまうような大きな――。
 自分を失ってしまいそうで怖かった。
 このまま自分という人間が消えてしまいそうで。
 だから、この泉の光を見つけたときにはほっとしたのだ。そして、気が緩んで……。
 小夜は嗚咽を上げながら泣いた。こんなに今まで涙を流したことがあるのかと思うほどに。
 涙を流し尽くして、ようやく落ち着いたころ。

――ドウシテ……――

 今まで自分の何も聞こえることのなかった空間でどこからか声が聞こえた。しかもずいぶんと近くからだ。どこかで聞き覚えのあるような声だった。
「だれ……」
 小夜は立ち上がってあたりを見まわした。だが、声の主の姿は近くになかった。 
 自分が発する以外、どんな音も存在しない場所に長くいすぎて、幻聴が聞こえたのかもしれない。何か音が聞きたい、誰かの声が聞きたいという思いがそうさせたのかもしれない。小夜は小さくため息をつき、我ながらずいぶんと切羽詰っているのだなと苦笑した。
 
――ドウシテ。ドウシテボクダケオイテ行ッテシマウノ……――

 小夜はハッとなって顔を上げた。
 これはやはり幻聴などではない。確かに聞こえてくる。消え入りそうな小さな小さな声ではあったけれど、確かに誰かの声が聞こえる。
 そういえば、伊吹と出会ってから、あのあたりでは、伊吹以外の人とであったことがなかった。一度も。伊吹も「一人で住んでいる」と言っていた。他に人がいるなどひとことも言っていなかった。だけど、他にも人がいるのかもしれない。
 小夜は泉の水で潤された喉を使い、あらん限りの声を出した。
「誰かいるのかっ! 誰かいるのなら、出てきてくれっ」
 だが、小夜の声は虚しく闇の中に吸い込まれていった。
 静けさだけがあたりを支配する。
 物音一つしない。
 やはり、空耳だったのかもしれない。そうに決まっている。このような闇の中に好き好んでいるやつなど、いるわけがない。
 肩を落とし、小夜は泉の辺に再び座り込んだ。
 じっと、泉の水面を見つめた。
 真っ暗な空間。その中にぽつんとある不思議な泉。
 周りには小さな樹以外は何もない。草も何もないのだ。もちろん、生き物などいない。泉の周りにも、そして泉の中にも。
 どうしてこのようなところに泉があるのだろう……。
 どうしてこの泉は光を放っているのだろう。
 先ほどはひどく混乱していて思いもしなかったが、あらためて見るとなんとも奇妙な光景だ。
 今になって次から次へと疑問が溢れ出てきた。
 
――ボクヲオイテイカナイデッ!――
 
「え……?」
 先ほどの切ない声は悲痛な叫びへと変わった。確かに――この泉の中から……。
 一度目は突然のことで気づかなかった。二度目は暗闇の方から聞こえてきたのだと思いこみ、立ち上がって周りを見ていたから気づかなかった。だが、三度目の今は泉のほとりに腰を下ろしていたから、はっきりとわかったのだ。この声が泉の中から聞こえてきているのだということに――。
 小夜はひざをつき、泉の中を覗き込んだ。
 泉の水は澄んでいて、美しい青色をしていた。だが、水底は見えない。どれほど深いか分からぬが、少なくとも小夜の瞳には泉の底は映らなかった。

――帰ラナイデ……。ボクヲオイテ、帰ラナイデ……――

 心が引き裂かれそうな悲痛な声。心からの叫び……この声は――
「伊吹……?」

 
 
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