三
――伊吹っ!――
その日、昼食を食べ終えた伊吹が、小屋の中の空気を入れ換えようと、窓を大きく開け放ったときのこと。
秋の少し肌寒くも心地よい風と共に、小夜の声が聞こえた気がした。
窓辺で気持ち良さそうに日向ぼっこしていた叉羅沙も耳をピクリと動かすと、ぎゅーと伸びをし、てとてとと伊吹のもとへ走り寄ってきた。そうして、着物のすそを口にくわえてぐいぐいと引っ張る。
伊吹は複雑な心境になった。
小夜がここにやってきたのは一月半も前のこと。その別れしなに「また来てもいいか」と尋ねられたとき、一瞬言葉を失った。なんと答えていいかわからず、「君が望むなら」と曖昧な返事をした。
彼女はそんな伊吹の答えでも、とても嬉しそうに笑ってくれた。伊吹も心の中ではそれが叶うのなら、どんなにいいことだろうと思わないわけではなかった。
けれど――。
あれから伊吹の心は、深く沈むときが増えた。彼女はまた来ると言った。けれど一月以上たっても彼女は来なかった。いつ来ると約束したわけではない。しかし、一日一日と過ぎていくたびに、やはり彼女は来ないのだという気持ちが重くのしかかってくるようになった。どうしてこんなにも心乱されるのだろう。伊吹はここでようやく一つの想いを自覚する。
――小夜にもう一度会いたい。
生身の身体でこの世界へやってこられる人間はいなかった。伊吹がここに住み始めてからずいぶんと長い年月が流れた。なのに、今まで一人もいなかったのだ。誰一人として。
会いたい、小夜に。
小夜が来る、ということが何を意味するか、伊吹は極力考えないようにしていた。なるだけ真実から目をそらそうとしていた。考えれば大きな不安が襲ってくる。どうしようもないくらい深い闇が心を支配してしまう。
伊吹はぶるぶると頭を強く振った。すべてを振り払うかのように。
「叉羅沙」
呼ばれて叉羅沙が駆け寄ってくる。
「小夜が来たみたいだね。迎えに行こうか」
きゅんと嬉しそうに一声鳴き、叉羅沙は伊吹の周りをくるくると駆けまわった。
今はいいじゃないか。小夜と会うことを楽しめば。今はいい。それで。そのあとのことなんて今は考えたくない。大切なのは今この瞬間なんだから。
伊吹はぎゅっと唇を強くかみしめると、気持ちを切り変えた。戸を開け叉羅沙を連れて外へ出る。
次の瞬間、小夜の姿が視界に飛び込んできた。
鮮やかな山吹色の衣をまとい、長い髪を揺らしながらこちらに向かって駆けてくる。紅葉の絨毯の上を軽やかな足取りでやってくる姿は、まるで小鹿のようだった。
伊吹と叉羅沙の姿に気付き、一瞬、立ち止まると、彼女は大きく手を振った。それを見た伊吹は心の中がすっと晴れ渡っていくのを感じた。知らず知らず伊吹もつられて手を振り返した。
叉羅沙は小夜がこちらまで登ってくるのを待ちきれずに、小夜のもとへと駆けよって行ってしまった。そうしてちゃっかりと小夜の肩に乗せてもらっている。
「久しぶりだな、伊吹」
小夜に言葉をかけられて、伊吹は微笑むことしかできなかった。小夜が来たら、「いらっしゃい」と迎えるつもりでいたのに。いざ小夜を目の前にしたら、その言葉は喉の奥につっかえたまま出てこない。
今までこうして人がやってくるのを迎えたことがなかったから。
熱い思いがこみ上げてきて、目頭が熱くなった。それをぐっと堪える。
「どう……した……? 来たらまずかったか?」
微笑みながらも、今にも泣きそうな複雑な表情をしている伊吹を見て、心配そうに小夜が顔を覗き込む。
伊吹は大きく頭を振った。
「そ、そんなことっ」
ない、と力をこめて伊吹は断言した。
「嬉しくって。本当にきてくれるとは思わなかったから」
小夜がこの前ここに入りこんでしまったのは、単なる偶然。もう二度とこの地へやってくることなどできないと思っていたから。
「ありがとう」
その言葉が素直に出た。
「?」
だが、言われた当の本人は、どうして礼を言われているのかわからないのであろう。不思議そうに伊吹を見ている。
「さ、小屋の中に。叉羅沙もぼくも小夜が来るのを心待ちにしていたんだ」
小夜を小屋の中へと招き入れた。小夜は伊吹の後について中に入ると、差し出された藁で編まれた座布団に腰を下ろす。
「ほら、おばばが作ってくれたものだ」
小夜は持っていた包みを膝の上に乗せると、包んでいた布をパサリと開いてみせた。中から出てきたのは、竹でつくられた器だった。竹の節を利用した器をさらに開くと、中からはこぶし大のふっくらとした蒸し菓子が二つ出てきた。中には栗が含まれているらしく、ところどころ小さく砕かれた栗がひょっこりと顔を出している。
「わあ……おいしそうだねえ」
「だろう?」
小夜は胸を張って威張って見せる。
「おばばの十八番だぞ。めったに食べられないものだけどな。私はこれが大好きなんだ。私が『森で足をくじいたときに助けてくれた人のところへ礼に行ってくる』と言ったらな、作ってくれたんだ」 |