蒼穹への扉
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「今、どのくらいの時刻だ?」
「ん……そうだな。昼を過ぎたころかな?」
「帰る」
 ひどく簡潔に告げる。驚いた伊吹が何かを口にしようとするのを遮って、小夜(さよ)は再び繰り返す。
「私は帰る。これ以上ここにいたら、村のみんなにも心配をかけてしまうから」
 小夜の言葉に、何を言っても無駄だと知った伊吹は、じゃあ、と自分も立ち上がった。
「途中まで送っていくよ。足だってまだ万全じゃないだろ?」
「大丈夫だ。帰り道さえ教えてくれれば、帰れるぞ」
「――また迷う気?」
「だから、道を教えて欲しいと頼んでいるんだ」
 語気強く言う小夜に対して、あくまでもゆっくりとしたペースで、でもねえ、と伊吹は困ったように小夜を見た。
「ここは神域だからねえ……土地勘のない人がそう簡単に抜け出せるようなところじゃないと思うけど」
「?」
「だって、小夜だって言ったじゃないか。ここは神様の住む場所なんだろ? そこに踏み入った人間は生きては外に出られないんだろ?」
 うっと言葉につまる。
 確かにそのようにおばばからは聞いている。だからこそ、初めにここが神域だと知ったときにあんなにも取り乱したのだから。二度と自分はここから生きて出ることは叶わないのだと信じて。
「――お前、性格悪いな……」
 うらめしそうに横目で伊吹を見やる。
「そうかな? 長い間生きた人に会ってなかったからね。嬉しいんだよ、きっと」
 これはお前の愛情表現かとぶつぶつと文句を言いつづける小夜を、心底嬉しそうに伊吹は見ている。
「さ、行こう。早くしないと、日暮れまでに村に帰れなくなるよ」
 それはかなわない、と小夜は首を振った。
 二日も気を失って眠りつづけていたのだ。きっと今ごろ村では大騒ぎになっていることは明白だ。これ以上、みんなに心配をかけないためにも、今日中には村にたどり着かなくてはならない。
  伊吹は叉羅沙を肩に乗せると戸を引き、まず自分が出てから小夜を外へと招いてくれた。

 

 小屋を一歩出たとたん、小夜の瞳には色鮮やかな紅葉の姿が飛び込んできた。
 沈む間際の太陽のように真っ赤な、あるいは炎のような橙色。黄色から赤へと変わり行くさまを一枚で示そうとしている葉さえある。
 それらの紅葉は日の光を受けて、より一層鮮やかに見えた。

 葉からこぼれ落ちた日は、地に舞い落ちた葉に優しく注がれている。
 あまりにも美しすぎる目の前の風景に、小夜は足を進めることさえ忘れ、その場に立ち尽くした。
「小夜」
 ぼうっとした顔のままの小夜を見て、伊吹が笑って手を差し出した。 
「まだ小屋から出たばかりなのに、迷子にならないでよ」
「――あ、うん」
 気の利いた返事もできないでいる小夜を見て、伊吹はぷっ、と吹き出した。
「ほら、おいで。帰り道をちゃんと案内するから」
 伊吹に手を取られ、小夜は歩みを進めた。
 森の中を続く細い道。短い草に覆われたそれは、よく注意して見なければ道とは分からないほどのものだった。それはつまり、人があまり通ることがないことを示している。
 もちろん、ここは伊吹が言うことが真実であるならば、神域だ。人間は恐れてこの区域に足を踏み入れることはない。小夜だとて、まさか自分が神域に入りこんでしまったとは知らなかったのだから。あのようなことがなければ、このようなところへ来ることなど一生涯なかったに違いない。ここは小夜たちにとってそのような場所なのだ。だから、当然、他に人が住んでいるという可能性は無きに等しい。
 さやさやと揺れる森の木々が運ぶとても気持ち良い風の中、小夜は伊吹と話をしながら歩いた。
「何だか、この森は不思議だな……」
 小夜がいつも戯れている森とは異なる印象を受ける。
 村の周囲に広がる森は、自分たち人の手が明らかに入っているものだ。人は木を切り倒し、また日々の糧をそこから得ている。しかし、この森には人が手を加えた跡も、深く分け入った跡も見られなかった。自然元来の姿をそのまま保ち続けている……。
 葉の合間から見える光の帯にそっと手をかざせば、指の隙間から零れ落ちた光が優しく小夜へと降り注ぐ。吹きぬけてゆく風は気持ちよく、まるで夢をみているような心地にさえさせられる。仲間と呼び交わす鳥の声は、美しい音色で小夜の心に優しく語り掛ける。
 ここは何もかもが清浄なのだ。美しく、穢れなど知らない無垢な天女のようなのだ。
「この森は――特別だから」

 
 
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