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「───?」
レイドが小屋を飛び出してからしばらくたった時であった。
外で洗濯物を取り込んでいたリエルは、ふと風の中に己を呼ぶ誰かの声を聞いた気がした。そしてその直後このことだった。
──風が止まった。
リエルは大きく目を見開いた。
これが何を意味するか──それを考えたリエルの腕からスルリと洗濯物がこぼれ落ちる。
「いや─っ」
その場にうずくまる。
リエルの叫びを小屋の中にいた他の者も耳にした。
リクシュはどうしたものかと顔をあげた。となりに座っていたルリアも不思議そうに顔を上げる。
奥の部屋でサナについていたフェリィも、部屋から出てきた。
お互い目で言葉を交わしながら、急いで小屋から出てリエルの側に駆け寄った。
「どうした───」
リエル、と言いかけてリクシュは顔を上げた。
「風が───ない」
リクシュの顔は強張っている。
「風?」
ルリアは何のことだか分からずフェリィのほうを見た。
フェリィは驚くほど真っ青な顔で、その場に立ち尽くしている。
「リクシュ…風──」
ルリアは言葉を呑みこんだ。リクシュは、それまで見たことがないほどとても険しい目をしていた。
「あたし、行かなくちゃ…」
そこでようやくリエルがふらりと立ち上がった。どこへともなく走り出そうとする。
その腕にリクシュは手を伸ばす。
リエルはリクシュの手を振り払おうとしたが、リクシュはギュッと掴んで放そうとしない。
「放してっ!」
ここ数日の間、リエルから得た印象はとても落ち着いている、というものだった。大きな心ですべてを包み込む姿はまるで、大地そのものだった。
だが、今目の前にいる彼女はとても取り乱し、己を失っていた。
「風が…レイドが───…」
リエルは何度もうわごとのように繰り返している。
「リエルはここで待ってろ。ぼくが行ってくる」
「だけど……」
「ばかっ! もし、こんなときに、きみにまで何かあったらどうすんだよ」
リクシュは何時になくきつくリエルに言い放ったが、その後は声を和らげた。
「───大丈夫、必ずレイドを無事連れ戻して来るから」
心配しないで、と優しく言い聞かせる。
そうしてから、ルリアのほうを振り返り見て、
「リエルを頼む」
そう言い残すと、そのまま飛び出していってしまった。
しんと静まり返る。
リクシュが出ていったあと、リエルは小屋の中に入ると、力なくペタンと床に座り込んでしまった。
両手で顔を覆ったリエルは、ルリアとフェリィに背中を見せるようにした。声をたててさえいなかったが、肩を小刻みに震わせ、泣いているのが分かった。
ルリアはというと、未だに呆然としていた。まだ事の事態が飲み込めないでいた。
一体、風が止まってしまったのと、レイドとどのような関係が───…。
なぜ彼女たちはここまで、風、風と気にかけている?
(風……?)
あっ、とルリアはようやく気づく。
この森には止むことなく、いつも優しい風が駆けていた。
草木を、花々を揺らし、風はいつも森のなかを駆けめぐっていたではないか。
いままでリクウェアにいたころとは少し違った、もっと澄んでいて、それでいてすべてを優しさで包み込むような風が吹いていたではないか。
そして、それは───なぜ?
(レイド……がいたから…?)
風の「こころ」。風から生まれ、風とともに生きる存在。風そのもの――。
その風が止んでしまった。
止んで……
(レイドに……)
ルリアは自分の言葉に首を激しく振って否定した。
そんなはずはない。
ルリアは、床に座り込んだまま声をたてずに泣き続けているリエルに目をやる。
ここへ来て初めて見たリエルの涙を流す姿だった。
ルリアは、どうしたらよいのか皆目わからなかった。
ただ、その場から一歩も動くこともできず、ただリエルの泣く後ろ姿をそばで見ていることしかできなかった。
そしてそれはフェリィも同様であった。その場から動くこともなく、ただうつむいてその場に立ち尽くしていた。
何もできずに…
リクシュは必死で森のなかを走り回り、レイドの気配を捜し求めた。
風が止まってから、もうどの位のときが流れたのだろうか。
早く、早くレイドを見つけ出さなければ……。
焦りの思いだけが先走り、いざこうしてみると、レイドが行きそうな場所が思いつかない。
がむしゃらに探し回ってもだめだとわかっていても、立ち止まって考えるのさえもどかしくて、リクシュは足を動かした。
「レイド───ッ」
叫びは森のなかに虚しく響きわたる。
だが、どんなに声を大にして叫んでも、レイドの声は返ってこない。
泣きたい気持ちになりながら、リクシュは激しく後悔した。
(もっとレイドの気持ちを理解するべきだったんだ。あのときもっとレイドの心を…)
汗でびっしょりになった服が妙に気持ち悪かったが、そんなことは構っていられなかった。
レイドが小屋を飛び出していった原因は自分にある。
自分がいつまでも彼を焦らしたから。
もっときちんと説明していたら、彼はわかってくれたかもしれないのに。
(――いま後悔してもしかたがない……だめだ…)
閉ざされた思考をしてもしかたがない。
頭を左右に振ると、リクシュは沈んだ思いを振り払った。
気づくと、リクシュは森を一望できる崖の近くまできていた。
そこはみんなとも良く来る場所であった。そして、レイドが自分たちが生きるこの森の中でもっとも気に入っている場所だ。
リクシュもむしゃくしゃするとき、心を鎮めたいときなどはここに来て笛を吹く。
ここに来るといつも風が気持ち良く吹いていた。
まるでレイドの気持ちと呼応するかのように――。
この森のなかで最も眺めがよく、最も素晴らしい風の吹く場所───。
しかし、いまリクシュの立つ崖の上には風の気配さえ無い。
風が吹かぬ世界は、木々の葉ずれの音も、花がそよぐ音も聞こえない。
しんと静まり返った空間は、逆に耳に痛かった。
リクシュはゆっくりと崖に向かって歩いていった。
───リクシュ…──
と、頭のなかに響く、聞き覚えのある声。
「誰だ───」
(トュティノか───?)
リクシュは自分の考えに首を振った。
いや、そんなことはあるまい。きっと空耳だ。
──リクシュ…───
だが、今度はもっとハッキリと自分の名を呼ぶ声を聞いた。
──リクウェアへ…早く…!───
崖の向こう側、空に浮いたトュティノの歪んだ姿がふっと現れた。
はっとなってその名を口にしようとした時には、すでにその姿は見えなくなってしまっていた。
(リクウェア国? ──なぜ…)
まさか───そんな思いがリクシュの心をよぎった。
もう、考えている時間などない。
相手がトュティノだということに、こだわってもいられない。
罠かもしれないが、それもはっきりとはわからない。
(行くしか――…。今は行くしかない)
リクシュはトュティノの言葉に従い、一人その場からリクウェア国へ向かった───。
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