冷静な目で見れば、明らかにここは外の世界とは異なるところがあったのに、うらむべきはもっと別のところにあったはずなのに、それさえ気付かぬほど、人々は疲れ切っていた。
だが、だがセヌエフなら――。彼なら何かをしてくれるに違いない。流入者の自分たちにとってよいことを。
そうしていつしか人々はセヌエフの言うとおりにするようになっていた。
疑うという概念がすでに彼らの中から消えうせてしまっているかのように、人々はセヌエフの言うままにことを進める。
(くだらねえな)
自分を担ぎ上げる人々を当の本人は冷めた目で見ていた。
自分に従った結果、その先に何が待受けているかもわからない人々を見ていると、哀れにさえ思えてくる。
セヌエフは立ち上がると、前方にある崖の方へと向かっていった。
少し小高い場所にあるここからは、眼下にリクウェアの中心、城下町のサフラが一望できる。
近くには大きな湖をあり、眺めはまさに絶景。だが、どんな美しい景色もセヌエフの心を潤すことはできなかった。
故郷が遠い昔に失ってしまった風景。
この国のような緑を取り戻すには長い年月がかかるだろう。いや、ひょっとしたら、二度とこのような自然を手に入れることなどできないかもしれない。
なぜ、と訊かれれば、分からない、と答えることしか今のセヌエフにはできない。
ただ、漠然とそんな気持ちがするのだ。
サワリ…
風が木の葉の間を駆け抜けて行く。
――兄ちゃん――
ハッとなって、背後を振り返る。一瞬、幼い日の弟が自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
いるはずのない弟。
二度と取り戻せない過去。
セヌエフは両親の顔をほとんど覚えてはいなかった。
ただ、数歳年下の弟がいたような記憶は残っている。
ちょこまかと自分の行く後を追いかけてきたことを。
そんな弟がかわいくてかわいくて……。
(今のオレには考えられねえな……)
フッと自嘲気味に笑う。
幼い頃、セヌエフは軍によって無理やり両親のもとより引き離された。
そう、あれは五つになるかならないかという歳のことだったか。幼い弟と丘で遊んでいたときのことだ。弟が投げたボールを追って茂みの中に入った途端、後ろから羽交い絞めにされた。声が漏れぬよう、口を塞がれ、何かクスリのようなものをかがされた。
次第に遠くなっていく意識の中で、必死に弟の名を呼んだ気がする。
そうして気づいたときには、施設の中にいた。自分と同じくらいの歳の子どもたちがやたらといた。彼らはみな、自分と同じように親元から引き離されてつれてこられたものたちばかり。
連れられてきたばかりのころは、両親が恋しくて毎晩のように泣いていた。
だが、建物の周囲に張り巡らされた鉄柵はとても高く、とても小さな自分たちには乗り越えることのできる代物ではなかった。また、常時武器を手にした兵士が立っており、見つかれば問答無用で牢へといれられるか、見せしめのために殺されることも知っていた。 それでも望郷の念に駆られて逃げ出すものも多かった。
けれど、成功するものはほとんど皆無で、大抵は連れ戻されていた。一度逃げ出そうとすれば、その後そのものへの監視の目は強くなる。与えられる自由も少なくなり、させられる仕事も過酷なものへとなる。
そのようなものを見せ付けられれば、逃げ出す気力などなくなっていく。
我慢すれば、我慢すればここでは生き延びることができるのだ。
そう言い聞かせることで、生きてきた。
「檻」の中で、武器の扱い方を教わった。
感情の殺し方も教えられた。
人の命を奪うのに、人間的な感情など邪魔なだけだったから……。
初めて人を殺したときは、さすがに手が震え、激しい自己嫌悪に陥った。
たしかあれは七歳の冬のことだった。
見る見る間に降り積もった雪が、己の奪った者の血で真っ赤に染まっていくのを見ながら、セヌエフはガタガタを震えた。
自分がしたことを自覚できず、大きな声をあげることですべてを否定しようとした。
「よくやった」と一つ年上の少年兵が誉めてくれたことも、嬉しいとは思えず、ただその晩は食事もろくにとらずに布団を頭の上からかぶった。
怖くて怖くて。
自分が殺した人が、悪霊と化し、己の命をとりにくるのではないかと恐れた。
そうして、それと同時に、自分はいつかはあのように誰かに殺される日がくるのかもしれないと・・・・・・。
だが、翌日からセヌエフは再び武器を手に人の命を奪い続けた。
拒否することは許されない。いやだと首を横に振れば、その時点で自分は命を失うことになるだろうと、わかっていた。
セヌエフに許された道はたった一つだけだった。
いや、覚悟をすればもっと別の道が見出せたかもしれない。
しかし、目の前で平気で命を奪うものたちの姿を見慣れてしまっていたセヌエフには、もはや別の道など見つけることはできなくなっていた。
怖い・・・・・・
イヤだ・・・・・・こんなこと・・・・・・
ここから逃げたい・・・・・・
父さんと母さんもところに帰りたい・・・・・・
決して口にはできない心の叫び。
だが――。
いつしかそんな思いは消え失せてしまった。
セヌエフ自身が気づかぬうちに、郷愁の思いは薄れ、そして、人の命を奪うことを恐ろしいと思うこともなくなってしまっていた。
人を殺している、という感覚すらすでになくなってしまっていた・・・・・・。
どんなに目の前の人物が泣き叫ぼうが、自分のことをののしろうが、もはやどうでもいいこと。
(くだらない)
何もかもがくだらない。
こうしている自分もくだらない。
戦の行きつく先など、もうどうでもいいことだった。
勝とうが負けようが下っ端の自分たちには関係のないこと。
戦は決してなくなることはない。
ひとつの戦が終われば、次の戦が待っているだけだ。
セヌエフは長年の間に空っぽになってしまった心を抱きながら、己の生きている理由さえ分からず銃を手にしていた。
そんなセヌエフにひとつの転機が訪れる。
――それが首都の壊滅だった。
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