おれはしばらく無言のままじっと立っていたが、耐えきれなくなって不意にそっぽを向くと、回りにいた村人たちを押し退けるようにしてその場を去った。
――これが、おれとルリア、リクシュの始めての出会いだった…。
おれが殴ってしまった少女が、この国の王女であると知ったとき、おれは再び呆然とした。王女とあろうものが、村へ来て村人たちと日を過ごすということが、まず信じられなかった。
「王女…?」
おれはリクシュの言葉を疑った。
ルリアは少し離れたところで、パンの残りを小鳥たちにやっていた。
「そう。あれ…ひょっとして言ってなかったっけ?」
リクシュはあっさりとそう言うと、飛び切りの笑顔をおれに向けた。
「そう、ルリアはこの国の王女だよ」
まさか…。まさかそんなことはあるまい。おれは首を振った。
信じろといわれても信じられまい。
そんなおれの心を見透かしたようにリクシュは笑う。
「君が信じられなくても、それが事実」
でも…とリクシュは急に真顔になった。
「クイントはこの事実を知って、やっぱりルリアを怨む?この国を統治する者の娘である彼女を憎む?」
リクシュの質問におれは答えられなかった。
この国が外の数々の国とは違うことを少しずつ、おれは感じ始めていた。
この国には身分の差というものがほとんど無い。リクシュがかつてそんなことを言ったことがある。
これはどういう意味だ?
身分のない世界なんて存在するはずがない。
おれたちが生きていた世界は、身分が低いというだけでまともな暮らしすらできなかった。ただ死なない程度に生かされていただけだった。
生まれたときにはもう自分の身分が、これから生きる人生が決まってしまっている。おれたちは、自分の前に敷かれたレールの上を進むことしか許されていなかった。休むことも、脱線することも、道を変えることも許されていなかった…。
そんな人生を自分たちに押しつけた支配者が恨めしかった。誰よりも憎かった――。
この国にはそれが無いというのだろうか?支配される者が支配者を恨むということがないのか? この国に住み着いてから早くも三月が過ぎようとしている。それなのに、一度として村人たちから、この国を治める者への愚痴など聞くことはなかった。口に出すことが恐ろしいのではない。口にする必要がないからなのだと、おれは感じていた。
――なぜだ?
この国がそれほど裕福とは思えない。むしろ自分が育ったトルキアより文明は遅れているし、その分生活だって楽じゃない。なのに、ここではそれが苦にはならない。
それは、なぜだろう――
小鳥がさえずっている。穏やかな風が草木の間を駆け抜けてゆく。
平和すぎる――。
緑の草の匂いを胸いぱいに吸い込んだクイントは本気でそう思った。始めのうちは、これは夢なのではないかと疑ったほどだ。
クイントは例の湖の辺で木陰に来ると、そこに腰を下ろし、そのまま寝そべる。
ルリアの言っていたとおり、本当にここは気持ちのよい場所であった。眺めもよいし、何よりも静かだ。小鳥の声と、風の囁きくらいが音の全てではなかろうか、と思う程だ。
耳元で鈴のような澄んだ音が鳴る。小さな精霊たちがクイントの周りを楽しげに回り、すぅっと去っていった。
この国にきて何度もこういったひとではないものたちを目にしている。外の世界にもいないわけではない。だが、戦に伴う大地の荒廃と共に、その姿を目にできる機会は減ってしまった。いや、そもそも人間たちの中で、彼らの姿を見ることが可能なものがどれくらいいようか。
少なくともクイントの周りでこのことが可能だったものは自分だけだった。彼自身最初から見ることができたわけではないのだが。故に人々は彼らの存在など、とうの昔に忘れてしまっている。自分たちが地上で唯一、大地を自由にできるものだと確信し、そうした結果があれだ――。
クイントは目を閉じた。
(――アネット…。お前をここに連れてきたかった…)
故国トルキアで死んでしまった幼なじみの顔がふと浮かんだ。
あいつはこういうところが好きだった…。そう、こういう光景の書いてある本をあるだけ片っ端から開いていたっけ。そして、まだ見たことのない、夢のような景色のことをよくおれに語ってくれた。ここリクウェア国のことも噂で聞いて、一度行ってみたいといつも言っていた。
――だが、アネットは一度もその憧れの景色を見ることもなく、この世を去ってしまった。アネットだけではない。このリクウェアに憧れ、この国を目指して行く旅路で命を失ってしまったものも多い。そして、祖国を捨てきれず、未だ荒れ果てた自国で生き抜こうとしている者もいる…。
一度でいい。一度でいいから沢山の緑と湖のある所へ行ってみたい――。
欲によって埋め尽くされた文明、そしてクイントたちが生まれたころには、もはや滅亡への道をたどるしかなかったトルキアの人々誰もが、一度は思ったことである。しかし、大半の人々はその夢を叶えることもできずに、あの戦でその尊い命を失った。
(――皮肉だよな。一度もそんなこと思ったこともない、このおれがこの国へ来ることができて、来たいと願っていた奴らが来られないとは)
そう、この世のなかというものはいつもこうなのだ――。
自分が願った通りにいくことなど、滅多にない。大概は、こんなはずではなかったと後悔するのだ。
(後悔…か)
クイントはふと、誰かの気配を感じて目を開けた。
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