エビドュを苦しみから解放することはできない。
彼は人間の悪のこころ、すなわち欲望、恨み、怒り、憎しみの象徴…。人間が悪のこころを捨てぬかぎり、それから逃れることはできない。
しかし、人間が悪の心を捨てることは決してない。
人間とはそのような生き物であり、悪の心と善の心があるからこそ、人間は人間として生きてゆけるのだから…
それでこそ、人間なのだ。
しかも仮に、悪の心が人間に無くなったとしても、そのときエビドュもこの世から消え去ってしまう。
それが人間の悪のこころの象徴、エビドュの運命――。
決して逃れることができない悲しい呪縛。
しかし、こうしていつまでも苦しみつづけるエビドュを見ているのは、トュティノもつらかった。
人間に対する怒りから、人間を滅ぼそうと、そしてこの苦しみから逃れたいというエビドュの気持ちは、痛いほど良く分かる。
しかし違う――。
こんなことをしても何もならない。
だから…。
「もうよそう―――こんなことをしても、苦しむのは自分だ。それはお前が一番良く知っているだろう?」
エビドュは一瞬、トュティノの言葉にためらいを見せた。
しかし、こらえきれない怒りが、激しくふつふつと突き上げてきた。
いや、人間などという生き物はこの世から消すべきだ。
自分自身のことしか考えず、この地球を死の淵へ追い込んだ人間どもなど――…。
エビドュは剣を抜いた。
「何をする気だ?」
トュティノはあくまでも冷静を装った。
しかし、エビドュは剣を構えると、そのままルリアに向かって切りつけてきた。
「!」
「危ない!」
ルリアは思わず目を閉じた。
しかし、次の瞬間ルリアではなくトュティノがルリアを庇うようにして、目の前に立ちはだかる。
「トュティノッ!」
「っつ――」
トュティノの全身に激痛が走る。
だが、倒れることはなく、ルリアを背にかばう。
「やめろ! エビドュッ!!」
しかし燃えるような瞳をしたエビドュは怒りに身を任せ、再びルリアに向かってきた。
キーンと剣と剣がぶつかる音がする。
トゥティノが剣を抜き、間一髪のところでエビドュの剣を受け止めたのだ。
「なぜ私だけがこのような思いをしなくてはならぬ! なぜ私だけがっ!」
強い憤り。そして哀しみ。
「だからといって、このようなことをしていてもどうにもならない! もうよそう! これ以上自ら苦しみの種を作り出すのは!」
「――黙れっ! 殺せ…殺せ、ルリアを! 王女を殺すのだっ!」
「できない! ルリアは殺させない!」
「トュティノーッ!」
激しい怒りをぶつけてくるエビドュ。
そして、彼の思いを全身で受け止め、身も心もその痛みで打ちのめされている、もう一人の――「彼」。
「おまえまでもが、私を裏切るのかーっ!」
エビドュはカッと目を見開く。
刹那、強い波動が二人を襲った。
「キャッ」
風のような激しい気にあおられ、ルリアは宙に舞う。慌ててトュティノが手を伸ばしたが間に合わなかった。
塔の外に飛ばされたルリアはそのまま支えを失い、落下していく。
「ルリアッ!」
そのとき、かまいたちのような風がトュティノを襲った。
トュティノは反射的に振り返り、さっと剣を構えた。
「!」
トュティノの前にはリクシュを中心としたクイント、フェリイの三人が立っていた。そして、その三人の背後にルリアを抱いたレイドをふわりと降り立つ。
トュティノは内心ほっとしたが、すぐに、エビドュのことを思い出し、キッと横目で確かめた。――いない。エビドュはその場からは煙の如く、いつの間にか消え去ってしまっていた。
「ルリアは連れて帰らせてもらうぜ」
レイドはニッと笑うと、ルリアをフェリィの腕に任せた。そしてリクシュたちと同様に腰から剣を取り出し、構える。
「だめ…だめよ…やめてっ」
ふらついた足で、それでもしっかりと一人で立ち上がり、ルリアはゆらりと一歩前に出た。
「ルリアッ!」
今にも飛び出していきそうな彼女の腕をフェリィはぎゅっと掴んだ。そして、静かに首を横に振る。
「――だめなの…やめて…彼は、トュティノは……私を助けようとしてくれたのっ!」
えっ、となってリクシュたちはトゥティノに目をやった。
彼は表情一つ変えず、静かに首を振った。
「――トゥティノ……?」
「――行け」
「……」
彼のそのひとことの内に込められた多くの想いを、リクシュは感じとった。
「――わかった」
「おい、リクシュ!」
剣をおろしたリクシュに、隣りにいたレイドが驚きのまなざしを向けた。
レイドはトゥティノに剣を向けたまま、クイントを振り返りみる。
彼もまた、リクシュの行動に驚きを禁じえないようで、一瞬瞳を大きく見開いたが、フッと小さく口の端で笑った。そうして、クイントも剣をおろす。
「おいおい……おまえらな…」
肩で大きくわざとらしく息をつくと、剣をしまった。
「お人よしにもほどがある」
まあね、とリクシュは言ったが、彼はまだトゥティノへの警戒を完全に解いたわけではないようで、厳しい顔つきで視線はトュティノに向けたままだった。
「待って、リクシュ! トュティノも!」
「ルリア――」
ぐいとリクシュは強くルリアの腕を掴んだ。
「リクシュ…」
「――彼のことを思うなら…帰ろう」
「行けっ!」
強い光がトュティノの手のひらより放たれた。光は、ルリアたちの目の前にくると、ぶわりと彼女たちを包み込むように大きく膨れ上がった。
黄金色の光球の中で、ルリアは叫んだ。
「なぜっ! 言ったじゃない! 一緒にって!」
トュティノの瞳が大きく見開かれる。そして――彼は目を細め、穏やかな笑みを浮かべた。
2
「ルリア…入るよ」
部屋の扉がノックされ、ルリアの返事を待たずにギイッっと音をたてて開けられた。リクシュが顔をのぞかせ、中のルリアの気配を探る。中にいるルリアからの返事はない――。
リクシュは小さく息をひとつつくと、ベッドに近づいた。そして、枕元までくると近くにあった椅子を引き寄せ、そこに静かに腰を下ろした。
「――…」
気だるそうに、ルリアが布団から顔を出した。
一晩泣きはらしたのだろう。目が赤くはれている。
リクシュは何も言わずに、腰の袋から笛を取り出して、そっと息を吹き込んだ。
久しぶりに聞くリクシュの笛の音――しかし、今のルリアにはその美しくもやさしい笛の音は届いていなかった。
けれども、リクシュはただただその場でルリアの為に、心を込めて笛を吹きつづけていた。
リクシュには痛いほどルリアの気持ちが分かっていた。それ故、今のルリアにはどんな慰めの言葉も意味がないということも分かっていた。今、この場で自分が出来ることと言えば、こうしてルリアの心が少しでも和むように、笛を吹くことだけだ。
静かな時が過ぎていった。
外ではいつの間にか、雨が降りだしたようだったが、その雨音さえもルリアの耳には届かない――。
なぜこんなにも悲しいのか自分でもわからなかった。
何も得られないまま、リクウェアから戻ってくることになってしまった。何のために自分は危険を犯してまで故郷へ行ったのだろう。
結局は、仲間たちに迷惑をかけただけではないか。
自分をリクウェアから救い出すのに、どれほどリクシュたちが苦労したか、今のルリアにはわからない。だが、一筋縄にはいかなかったはずだ。だからこそ、今までリクウェアには近づかないようにしていたのだから。
それなのに、自分は――。
その上、トュティノの心を知りながら、どうすることもできなかった。
彼はエビドュのもとに、あのままいさせてはいけなかったはずなのに。自分のことを裏切った者を、エビドュが許すとは思えない。たとえそれが自分の半身であったとしても。
トュティノは果たして無事なのであろうか……。裏切った上に、ルリアを逃がしてしまったのだ。ただではすむまい。
今回ほど、自分の無力さ、おろかさを思い知ったときはなかった。
なんて自分は情けない人間なのだろう。
一晩泣いて、涙は枯れ果てたかと思っていたが、再び目頭が熱くなってきた。
(そうやって泣いてばかり)
呆れたように、冷ややかな視線を送るもう一人の自分が見える。
(泣けばどうにかなるとでも思っているの?)
(――そんなこと!)
(泣いて、自分を責めて。そうすればその間は現実から遠ざかれるものね。過去に浸っていられるもの)
容赦のない言葉。だが、真実だ。
――私は…――
遠くから聞き覚えのある音色が聞こえてきた。
やさしく心に染み入る穏やかな笛の音。
――現実から逃げている…だけ……――
(そうよ。あなたは現実から逃げているだけ。泣いているだけで、何かをしようともしない。あなたが泣いていても……)
笛の音はだんだん大きくなっていった。そして、心のなかの隅々まで広がっていく。
――泣いていても、何も変わりはしない……のに……――
何もできなかったと後悔しているだけでは、一歩も前に進めない。
泣いているだけではだめ。
後悔しているだけではだめ。
待っているだけではだめ。
(私が今できることは……)
今、自分がしなくてはならないことは――。
「――リクシュ…」
ルリアが長い沈黙を破って、リクシュの名を呼んだ。
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