あれはいつのことであっただろうか…。
そう、人間がこの地上に現れ、我が物顔でこの地上を、いやこの地球を破壊しはじめたとき、人間の全ての醜い心、欲、が渦巻きはじめたときだ。そのときトュティノとエビドュは人間の二つの心――善と悪の「こころ」として生み出されたのだ。
こうして「善のこころ」と「悪のこころ」の長い戦いが始まった。「悪のこころ」は、悪のやり方で、そして「善のこころ」は、善のやり方で惑星をもとの美しいほしに戻そうと……。
しかしいつからか「善のこころ」はひとの愚かな行動に、強い憤りを感じるようになっていた。「悪のこころ」のほうが正しいのではないか、という思いさえ生じた。自分本来の姿を失いつつあった。
「悪のこころ」は主張した。
このほしを滅ぼしてしまおう。これが人間の欲に対する報復だ、と…。
「悪のこころ」は疲れ果てていた。自分のなかで渦巻く醜い叫び…抑えようのないこのどす黒い気持ち…。なぜ自分は「悪のこころ」として生まれてきたのだろう。この自分をこの世に生み出した人間が何よりも憎かった。
――憎い。憎い、憎い、ニクイ……。
おまえたちのせいで私はこんなにも苦しい思いをしている。こんな思い、持ちたくはないのに。こんな心でいたくないのに。
何度も、何度も。おまえたちはなぜ繰り返す――。その先にあるものが何かわかっているはずなのに。
もう、「悪のこころ」を止められるものはいなかった。
封印が解かれたあと、彼は戦を始めた国々をその力で次々と亡ぼした。怒りが赴くままにすべての国を──。
そして最後に仕上げに、このほしの守り神ルリアがいるリクウェアに目を向けた。二人はセヌエフという「人間」を立て、すべてを彼の名のもとに行わせた。そうすれば彼を怨む「人間」が現れる。それはやがて戦になるだろう。「人間」と「人間」の争い。そうして彼らは自滅する。
待っていれば、やがて「人間」は自らの過ちによって、その身を滅ぼす。
そう、待てばよい──
こうして、もうずいぶんと長い間トュティノは「善のこころ」を内に抑え込んでいた。頑丈な糸で複雑に縫い合わせ、決して外に出てこないように。
それがルリアの涙によって、少しずつ糸が解れてきている。
(私がこの手で―――)
ぎゅっとこぶしを握りしめ、ダンッと力一杯壁にぶつけた。
――迷いが生じたか――
エビドュの心がトュティノの心に問いかけてきた。
トュティノはこぶしを握りしめたまま黙って俯いていた。
――眠らせていた「善のこころ」がいまさら目覚めたのか?――
エビドュはトュティノの心を読み取り、せせら笑うように言った。
「私は――…」
トュティノは頭を両手で抱え込んだ。そして、小さく消え入りそうな声でつぶやく。
「私は…『善のこころ』…だ」
エビドュの姿がふっとトゥティノの影から現れた。そして冷たく言い放つ。
「何をいまさら。もはや遅い。私を抑える立場にあるべき貴様は私に手をかしたのだ。この私にな…。貴様が『悪のこころ』である私に従い、このほしを滅ぼそうとしたことは事実なのだ。貴様はもう『善のこころ』ではない。私と結局は同じなのだよ」
エビドュはそっとトュティノの耳元で囁く。「おまえは『悪のこころ』だ」と。
「悪の…こころ…」
言い残すと、エビドュの気配はふっと消えてしまった。直後に全身に傷みが走る。ぽたりと床に血が落ちる。
(「悪のこころ」…この私が――…)
エビドュの最後の言葉はトュティノの心をえぐった。
(私は…何をした……?)
悲痛な思いがトュティノの心を蝕んでゆく。
一番認めたくないこと――しかし、それが事実であるということをトュティノには否定する資格はない。
「ああ…」
トュティノは苦しげにうめくと、傷だらけの身体をさらに痛めつけるように、幾度と無く拳を床にうちつけた。
トゥティノが出て行ってから数分後。
激しい物音が扉の向こう側から聞こえた。
不審に思ったルリアは扉に近づく。耳を戸にあて、外の音を聞こうとしたが、何も聞こえてはこなかった。
さらに数分後。ルリアは意を決して扉のノブに手をやる。開くはずのない戸は、ルリアの予想に反してあっけなく開いた。
部屋の外には見張りの兵士がいるのだと思っていたが、そこには誰もいなかった。それどころか人の気配はまったくしない。
ルリアは目の前に続く階段の上方と下方を見比べていたが、何かに呼ばれるかのように最上階へと向かい始めた。
塔の屋上へ出る戸をゆっくり開くと、視界の端に銀の髪が写った。ハッとなって姿を隠そうとした瞬間、彼がうずくまるように座り込んでいることに気づいた。
「――…」
ルリアの気配に気づき、トュティノが顔を上げた。
彼の瞳はそれまでとは異なり、まるで捨てられた仔犬のようだった。
「私は…私は……この手で……」
自分の拳を見つめるトュティノの瞳から、涙がただ溢れてゆく。
痛々しい彼の姿を見たルリアの胸の奥深くからは、熱い思いがこみ上げてきた。
自分の体を更に痛めつけるように、拳を壁に叩きつづけるトュティノの腕を、ルリアの細い両腕がしっかと掴んだ。
「もう、やめて! お願いっ、もうやめて!!」
トュティノを見つめる大きく見開かれたルリアの瞳からは、なぜか涙が止まらない。
(心にどうしようもないくらい深い傷を負って、悩んでいる人がここにいる――)
自分の腕をしっかり握りしめ、涙を流しつづけている少女をトュティノはじっと見つめた。
この少女は……自分のために涙を流してくれている――。
トュティノは静かに腕を下ろした。
心が安らいでゆく――。
この少女といると、こんなにも心が安らいでゆく――…。
彼女が、そしてリクシュたちが、このようになったいまも、「ひと」を信じ続けている意味が、少しだけトュティノにもわかった気がした。
ひとがしたことを許すことはできない。
けれど、彼らがしたことを罪とし、すべてを葬り去ろうとすることもまた許されることではない。
わかってはいた。
けれど、エビドュの苦しむ姿を常に目の当たりにしていた自分には、彼を諌めることはできなかった。――いや、おそらくいまもできないだろう。
エビドュを責めることは。だが、同時にひとを滅ぼすこともできない。少女が――ルリアが流した涙を見た今は。
他人のために泣ける。他人のために身をていすることができる。他人のことを想い、そして――。
トュティノは決心した。
(やはり、このままではいけない。私は、私のしたことを償わなければならない――)
このままエビドュの言いなりになってはいけないのだ。
トュティノが長年、押さえ込もうとしていた「善のこころ」が蘇ってきた。
(私は、「善のこころ」――。たとえ人間がこの地球を滅ぼす原因となっていても、ルリアのような心を持った者のいる限り、私は「善のこころ」として人間たちを見守らなければならない。それが私の役目――…)
トュティノはゆっくりとルリアの手を握り返す。そうしてルリアに微笑んだ。それまでの笑みとは違う、優しく、そして穏やかな微笑。
「帰るがいい……森へ」
「え?」
驚くルリアの髪を細く長い指がなでていく。
「そなたはここにいてはならぬ。森へ、リクシュたちのもとへ帰れ」
「――なぜ?」
ここに連れていたのはトュティノだ。なのに、今度は帰れ、と言う。
まだ何もしていないのに。エビドュにもあっていない。家族の安否も確かめていない。なのに、帰ることなどできようか。
リクシュの制止を押し切ってまで自分はリクウェアに戻ってきたのだ。
せめてエビドュに会うだけでもしていかなければ、心配をかけているリクシュたちに申し訳ない。
しかし、トュティノはもう一度静かに繰り返した。
「ここにいても何も解決はせぬ。エビドュを止めることはできぬのだから」
「――でも…あなたは…」
自分が帰れば、その咎はトュティノが受けることになる。無事ではすむまい。
「大丈夫だ。私は。私が消えれば、エビドュも消える。それは、彼が一番よくわかっていることだ。私は大丈夫…だから」
ルリアはこくりとうなずいた。そうして、トュティノの傷だらけの手を両手で優しく包み込んだ。
「待っていて。必ず、もう一度来るから。そのときは、あなたも一緒に…」
「――ああ……」
――トュティノ!――
その瞬間エビドュの声が響きわたった。
怒りに満ちたエビドュの声――…。
トュティノはキッと立ち上がると、ルリアを庇うようにした。
エビドュはスッと二人の前に姿を現した。
ルリアはハッと息を呑んだ。
――トュティノが二人…。
トュティノと瓜二つのエビドュ…。
この人が、人間を滅ぼそうとしている張本人…。
――トュティノ――逃げる気か?――
「―――…」
――この私を裏切って、逃げる気か?――
トュティノは黙ってエビドュを見た。
その目には憐れみの色が揺らいでいる。
トュティノとは違い、悪のこころの象徴として生まれたエビドュ…。
同じ時に、同じ様にして人間の心の象徴として生まれた。それなのに、“善”と“悪”この二つの心が二人の生き方を、心の有り様をここまで、変えてしまっている。
たえず人間の欲を心の内に抱え、生きているエビドュ――…。
自分ではおさえようのないような心に悩み、苦しみつづけているエビドュ…。
「もうよそう…エビドュ――」
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