遙か縁の土地めぐり



柳の御所

平家側により、一時期御所がおかれたのが、この柳の御所。
少々わかりにくい場所にありましたが,近くにいくとすぐにわかりました。旗が…見えましたゆえ(笑)。
平家の真っ赤な旗が迎えてくれたのです。今はどうなのかな?

御所跡であることを示す石碑もあります。

今は「御所神社」となっており,境内には説明書きもありました。

柳の御所
寿永2年(1183)木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に逃れ、大宰府に落ちていった。
しかし、ここでも豊後の豪族・緒方三郎惟義が攻め寄ると聞いて、さらに遠賀郡山鹿の城を経て、豊後国柳が浦にたどりついた。
この柳が浦が現在の大里のことで、古い記録に「内裏」と書かれているのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。
現在、戸上神社のお旅所となっているこの地がむかしの仮御所の跡であろうと伝えられて「柳の御所」と呼ばれている。
境内の歌碑は栄華を極めた郡の生活をしのんで平家の公達が詠じた歌である。

都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立寄りてみよ
薩摩守 忠度

君住まは ここも雲井の 月なるを なほ恋しきは 都なりけり
大納言 時忠

境内にはいくつか歌碑もありました。
こちらには忠度の歌が刻まれています。
都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立寄りてみよ

こちらは経正の歌碑。
分けて来し 野辺の露と 消へずして 思はぬ里の 月をみるかな

君住めば ここも雲井の 月なるを なお恋しきは 都なりけり
こちらは時忠の歌ですね。時忠は、清盛の妻時子の弟。
「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と言ったことで有名な人です。

そして歌碑の近くには、このような看板がありました。

九月十三夜の歌読の事
寿永2年(1183)安徳帝を奉じた平家一門は柳が浦に上陸し柳御所を造営した。九月十三夜の歌宴を此処で催し、次の歌を詠んでゐる。

打解けて 寝られざりけり 揖枕 今宵の月の 行方清むまで
大臣殿 宗盛
月を見し 去年の今宵の 友のみや 都に我を 思ひ出づらむ
薩摩守 忠度
恋しとよ 去年の今宵の 終夜 月みる友の 思ひ出られて
修理大夫 経盛

清経、柳が浦へ入海
重盛殿三男 左中将清経は柳御所より小舟に乗り沖に出て
「哀れはかなき 世の中よ いつまで有るべき所とて」と
静かに念佛して波の底に沈んでいった。

境内の資料室という建物のすぐそばには不思議なものがありました。
なんでも、安徳天皇と平宗盛の木像がおさめられていたとのことです。

んで,説明書きはこんな感じ。

キリメン様の石室
この石室には。文化2年(1805)9月立之、と刻されております。木舟社をキリメン様と呼び親しんでいた村人達が、御神像を保護するため、石室を建立したものと思はれます。
平家物語、源平盛衰記に記された、柳御所の所在地を調査の為、旧柳村を訪れた佐野経彦翁は、文久3年絵(1862)「柳御所考」を著し、次の様に記しています。



1、内裏跡地については、疫神社と木舟社との両説あるが、双方は非常に接近していれうので、昔は一体のものと見るべきであろう。
2、疫神社、木舟社と夫々天皇の大御称を隠しひそか祭祀したのは、其頃は源氏の世であった為と思はれる。
3、木舟社の森の中程に、東面して建てられた一基の石室があり扉の奥には、木像二体の御神像が安置されていた。
4、高さ7・8寸の、霊を抱いて見える小児の御姿が安徳天皇像公卿の黒の衣冠をつけ、腕を組んだ坐像が宗盛卿像である。
5、御神像の製作期は、大変古く考えられ恐らく文治・建久(1185~98)頃のものと見える。
6、内裏跡の聖地が村人達に踏み汚されぬよう、跡地に樹を植えたため、幾年には疫神の森、木舟の森とも呼ばれていた。現在、この石室にあった御神像は、戸上神社の御神宝として祭祀されております。

小さな神社ではありますが,結構見るべきものがあって面白いですよー。

作品とのかかわり

作品中には出てきません

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