遙か縁の土地めぐり



壇之浦合戦壁画

めかり公園内にある第2展望台には、大きな壁画がございます。
壁画はなんでも1400枚の有田焼でできているんだとか。
普通に車道沿いにあるので、展望台の高台から望遠で撮るしかないんですけれどね(笑)
歩いて行けないわけではないですが、たぶんあの道は人が通ることはほとんど想定されていない気がするので、車かタクシーかバスで行かれることをオススメします(^^ゞ

壁画はこんな感じ。 

壁画を凝視して見ていると(笑)、義経発見!
よく見ると、イルカもいます。

こちらは、建礼門院と二位の尼&安徳天皇と思われます。
右下の船が御座船ってわけです。

展望台には結構丁寧な解説もございます。
それがこれ。ちょいと長いです。

源平壇之浦合戦について
眼下に広がる関門海峡は、一日700余隻が通過する国際航路であるが、日本の歴史に華々しく登場し、やがて散っていった平家滅亡の哀史の地としても有名である。
寿永2年(1183年)栄華を極めた平家も衰えを見せ、永年勢力を争った源氏の木曽義仲に追われ、京都を逃れた。
平家は平清盛の外孫安徳天皇を擁して、100隻ばかりの船に乗り、平家ゆかりの地吸収の宇佐八幡を頼ったが、平重盛の家人であった緒方三郎惟義の裏切りにあり、やむなく筑前の大宰府天満宮に入った。 しかし、ここも安住の地ではなく、遠賀川河口の山鹿城(芦屋町)に落ちた。城主山鹿秀遠と香月の庄(八幡西区)香月氏とは共に平家を助けたが、山鹿城へも惟義の軍が押し寄せると聞き、安徳帝と平家一門は小舟に乗って夜もすがら響灘を東へ向かい、豊前の柳が浦(現在の門司区大里)に上陸した。

ここに内裏つくるべきよし沙汰ありしかども、分限なかりければつくられず、又長門より源氏よすと聞こえしが、海士の小舟にとりのりて、海にぞうかび給ひける。 (平家物語)

平家は柳が浦に内裏(この古事により、今の大里と改められており、大里には安徳天皇の行在所となったと伝えられる柳の御所がある。)をつくろうとしたが、もはやその力もなく、また、長門(下関側)からの源氏の襲撃もあるので、瀬戸内海を東へ逃れた。
東へ進んだ平家は一時勢いをもりかえしたが、摂津の一の谷、四国の屋島で源義経の奇襲にあい敗退、再び北部九州へ向かい、これを追って西下した源氏と関門海峡で待峙した。

源氏の船は三千艘、平家の船は千余艘、唐船少々あひまじれり。源氏の勢はかさなれば、平家のせいは落ぞゆく。元暦2年3月24日の卯剋に、豊前の 国門司、赤間の関にて源平矢合とぞさだめたる。
すでに源平両方陣をあわせて時をつくる。上は梵天までもきこえ、下は海龍 神もおどろくらん…(平家物語)

寿永4年(元暦2年、1185年)3月24日の卯の刻(午前6時ころ)早鞆の瀬戸(関門海峡)のうず潮の中で海戦が始まった。4千余艘の船が、源氏は白、平家は赤の旗印をなびかせて入れ交じった。
当初平家が優勢と見られたが、源氏の勝利を予言する種々の奇跡が現れて、四国、九州の平家方の寝返りと、船の漕ぎ手を先に倒すといった源義経の巧妙な戦法により、その日16時ごろ平家の敗北は決定的となった。
平清盛の妻で安徳天皇の祖母二位の尼は、もはやこれまでと、御座船から8歳の幼帝をいだいて「浪の下にも都のさぶろうぞ」と海中へ身を投じた。帝の母建礼門院もこれにつづいて入水、平家の武将もつぎつぎと身を投げ、ある者は鎧を重ね、碇を背負い海に入った。
「おごれる人は久しからず、唯春の夜の夢のごとし」5年間におよぶ源平両軍の戦いは史上まれに見る大規模な海戦でその幕を降ろした。

この壁画は、眼下の海峡で繰り広げられた源平の合戦図であり、赤間神宮の社宝、安徳天皇縁起図を参考に描いたものである。 壁画中央の御座船に安徳天皇、建礼門院、二位の尼の姿がある。 御座船の左上、波間に浮ぶ女性は建礼門院、救われ京都に送られて尼となる。 御座船の右手、海上を跳躍する武将は源義経、平家の猛将平教経に追われて船八艘を跳んで逃れる。世に義経の八艘跳びという。 いるかの群が見えるのは、いるかの様子で吉凶を占ったことによる。

平家物語は日本古典文学大系より抜粋。

平成2年10月 北九州市

展望台から見た景色。
こちらの本面に見えるのは彦島なはず。

反対側から見えるのは,千珠・満珠…かな。

作品とのかかわり

作品中には出てきません

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