遙か縁の土地めぐり



安徳天皇社

史跡が集中している地帯からは少しばかり離れたところにあるのが,安徳天皇が内裏を構えたという,行宮跡。
初めて訪れたときは,のぼりが立っていましたけれど,2回目に訪れたときはなくなっていました。

説明書きにはこんなふうに書かれていました。

安徳天皇社

寿永2年(1183),平宗盛は,安徳天皇を奉じて一の谷から屋島にきました。
ここは,壇の浦の入り江にのぞみ,後ろに険しい屋島の峰,東に八栗の山をひかえ,戦には地の利を得たところであったので,宗盛は行宮を建て将士の陣営をつくりました。
安徳天皇社あたりが行宮跡であったといわれています。

ここにある「壇の浦」は,平家が滅亡した山口県下関の「壇の浦」とは別の場所のことです。ここ,屋島にも同じ名前の場所があるのですよ。
平家にとって「壇の浦」という地名は,滅亡へと導く,よくない場所だった気がしますね,こうして歴史を振り返ると。

社殿にかかっている立派な文字。説明などはないので,詳細は不明。
「源頼壽謹書」となっています。調べたところ旧高松藩主松平頼聡の八男だとか。

少し見づらいかもしれませんが,龍の彫り物も。とても見事なものだったので,思わず写真でぱちり。

本殿の裏はこんな感じ。
青空がとてもきれいでした…。
ひっそりとした境内は人がおらず,なんだかもの悲しい雰囲気ではありましたけれど。
そして,境内にはなぜかシーソーやブランコがあるんですよね。
近所の方の憩いの場にもなっている,ってことなんでしょうか。

そんな境内の片隅にあったのがこちら。

平家一門の墓です。

寿永4年2月,繰り広げられた源平屋島合戦は,滅びゆくものの哀れと,追うものの雄雄しさを描く一巻の絵物語として,今に伝えられている。 この戦いで散ったつわものたちの課かがあちらことらに散らばっていたものを,いつのころからか里人たちが,安徳天皇ゆかりのこの社の本殿裏に集められていたものを,この地へ移設のうえ供養したものである。

ちなみに狛ちゃんたちはこんな感じでした。

ちょっと愛嬌のある御顔をしていました。

最後に。 境内から,遙か3のゲーム画面だと右側(東側)方面を見た景色。 のどかな風景です。

作品とのかかわり

九郎と望美が仲直りをする

攻めに行くが,もぬけのから

兵士よりリズ先生のことを聞く

ヒノエと望美が捕まる。束縛耐性をヒノエが習得していない場合,ここでヒノエが死亡する

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