遙か縁の土地めぐり



赤間神宮

壇ノ浦まできたら,ここには絶対行かなくてはなりませぬ。
下関側でのメインはやはりここでしょう。安徳天皇を祀ってある赤間神宮です。

私が1度目に訪れたのは,ちょうど年末でした。
が,すでに正月の準備が。
絵馬が新しい年のものに変わっていました。
あ,訪れたのは2005年の年末です。
気が早いなあ…というか,それが普通なんでしょうか?(笑)

赤間神宮は,今は「神社」なんでしょうけれど,もともとは「阿弥陀寺」というお寺に由来があります。
安徳天皇の遺体が引き揚げられて,それを埋葬したのが阿弥陀寺というお寺でした。
んで,建礼門院縁の尼さんがそこに仕えたそうです。
ところが,明治になってからの神仏分離により,阿弥陀寺が廃寺となり,神社となりました。そして,今に至る,と。
なのですぐ隣にある安徳天皇の陵は「阿弥陀寺」ってなっているわけか。

境内にはそれはそれはたくさんの史跡があります。
足利尊氏が,参拝した折,
「いづくより 名をあらはさむ 薄墨の 松もる月の 門司の夕暮」
と詠んだ松もあったそうです。
が,昭和20年の戦災で消失してしまい,その後植えられ,今,境内にあるのはその2世なんだとか。

八咫鏡の石碑なんてものもあります。
「第10代祟神天皇より第81代 安徳天皇まで1276年間歴代皇位継承の三種の神器」
と記載があります。

なんでも,平家が持っていた八咫鏡は,とある兵士に託され,彼は現在の岡山まで落ち延びたそうです。
で,昭和になってその伝承を元に考古学者の方が発掘をし,鏡の破片を発見! 赤間神宮に奉納されることになったんだそうな。
まあ,もともと,その八咫鏡も本物ではなく,形代とのことですけどね。天皇とはいえ,三種の神器ともにあるのは恐れ多いとのことで,かたどったものをそばにおいていたとのことです。
奥が深いなあ。

境内にはある日本西門鎮守八幡宮なるものもあります。 壇ノ浦の合戦では,劣勢になった源氏軍が祈ったところ,白い旗が天から降りてきて,それを契機に優勢になったといわれているのだとか。

そして,そして!
ここには神子様が大興奮しそうなものがございます。
平家一門の墓「七盛塚」でございます!

石の塚が全部で…14あります。
石に刻まれた文字から,少なくとも1600年代あたりに,ここに作られたものではないかとされているようです。

並びは,下記のようになっています。 ちなみに,一番上のものが右側です。

■前列
左少將 平有盛
右中將 平清經
右中將 平資盛
副將能登守 平教經
参議修理太夫 平經盛
大將中納言 平知盛
参議中納言 平教盛

■後列
伊賀平内左衛門 家長
上総五郎兵衛 忠光
飛騨三郎左衛門 景經
飛騨四郎兵衛 景俊
越中次郎兵衛 盛継
丹後守侍従 平忠房
従二位尼 平時子

これを見て,詳しい方はおわかりかと思いますが,壇ノ浦で亡くなっていない方の塚もここにあったりします。ですので,これは,本当の墓ではない,という説もあるようです。
確かにそう考えれば,門司側に知盛の墓,といわれるものがあっても,おかしくないわけですけどね。
ちなみに,いつから「七盛塚」と呼ばれているのかは不明なんだとか。しかも,「七」といいつつ「盛」がつくのは6しかないんですよね。
あ,知盛のお墓はこちら。中央のものがそうです。

塚の前にあるお賽銭箱には蝶紋。
私たちが平家の家紋としてよく目にする揚羽紋ではないですが,これが平家の蝶紋。
兵庫に行ったときに訪れた清盛塚だったかの家紋もこちらでした。

社殿から七盛塚にいく途中には,耳なし芳一の話にちなんで,像があります。

夜に前を通ったらライトアップしていました。
今もしているのかな…。

こちらは境内で展示されていた平家蟹のレプリカ。
壇ノ浦で無念のうちに死んでいった平家の人々の憤怒の表情が甲羅に現れたのだ,ということでこの名前がついているようです。
昔は網にかかると,この赤間神宮に奉納したのだとか。
今ではもうあまりみかけることもなくなったそうです。
そういえば,世の中には「弁慶蟹」なるものもいるようですけれどね。
作品とのかかわり

作品中には出てきません

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