遙か縁の土地めぐり



上岡田神社

さすがに鳥取にはないだろうなーと思っていたのですが,思いのほかあるものなのですね,源平関係の史跡(笑)
鳥取県の内陸部にある小さな神社。
安徳天皇が隠れ住んだという伝説が残っています。
行くと,大きな石碑まであったり。

案内版もあったりしました。
伝承 宮川の「片目雑魚」(現在は棲息せず)
上岡田神社裏山の麓を流れる谷川に,昭和30年頃迄は,片目の「雑魚」がたくさんすんでいた。
幼帝をおなぐさめのため,村人が持参した「雑魚」をたらいに入れて楽しまれていた天皇がいたずらに針で片目をつき,川に放たれた。
それ以来,宮川の「雑魚」は皆片目になったと云う。
(郡家町観光協会)

この「天皇」が誰を指すのかは,看板に明記されていません。
が,ここが「安徳天皇」に関する神社であるから,当然のように省略されたんでしょうね(笑)

神社に関する説明版もありました。結構がっつり記載されています。

伝承 安徳天皇御陵について
寿永4年(1185)3月24日,長門国(下関市)壇の浦の最後の源平合戦に敗れた平家は,第81代安徳幼帝(御年8才)以下入水とみせかけて,実は天皇以下主だった武将らはひそかに戦場を離脱し,各地に亡命した。
天皇を奉じた二位の尼(平清盛の妻時子),女官,武将らは因州鳥取の賀露の浦に上陸,折よく通りかかった岡益の光良院住職の宗源和尚の案内により,この姫路の地に遷幸されたという。
この地を私な都として仮の皇居を営まれていた天皇は,文治3年8月13日,村野西方,国府町境の山野で山遊び中,俄かにご発病。侍臣たちの必死の御看護も空しく,遂に峯のやや下方で崩御された。
今,その地を「崩御ヵ平」と呼んでいる。歎き悲しんだ二位の尼以下の侍臣たちは,泣く泣く御遺骸を村に移し,この「平地」の地に葬り,天皇の御墓としたといわれる。
以来800年,邑人たちはこの地を安徳天皇御陵の聖地として厚く崇め祀っている。
平成4年10月 郡家町観光協会

つまり,この神社に葬られた,ということになりますね。
境内にはたくさんの五輪の塔がありました。
きっとこれらはお墓なのでしょうけれど,この中のどれが安徳天皇のものかはわからない状態でした。

結構な数,あったんですけれどね。
調べてみると,平家一門の皆さんのお墓,とのことですけれど…。
きっと探せばこの地区にはたくさんの伝承が残っているんだろうなあ…。

作品とのかかわり

作品中には出てきません

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