遙か縁の土地めぐり



闘鶏神社

弁慶のふるさとと言われている田辺に闘鶏神社はあります。
昔は「新熊野鷄合大権現」と呼ばれていたようですが,明治維新の際に今の名前に改められたようです。
ちなみにすぐ隣にある大福院というお寺(弁慶生誕の地の石碑がある)とは,もともと一緒だったようですけれど,これまた明治時代の神仏分離令で別々になったようですね。

鳥居をくぐってそれから…ココ…。
どこかで見た景色(笑)
「遙か3」でヒノエくんが登場するシーンの背景です。
左側に木々がありますので,この木のどこかにヒノエくんは潜んでいた,と。
実際行ってみるとわかるんですけれど,正面に見えるのは本殿。左側は境内なわけでして…。(右側は入れない)
「ここで神子たちが来るまで潜んでいたのか…」
と,ちょっと笑えます。
神子たちがここを通らず,普通に境内のほう(左側)を通ったら,しかも木の近くを通らなかったらどうしたんだろうねえ…。

本殿の正面にまわるとこんな感じです。

境内にある鶏のオブジェ。
闘鶏神社と言えば,熊野別当湛増が源氏と平家どっちにつくか,闘鶏で決めたという伝説が残っていますからね。
闘鶏神社という名前は,この伝説からのようですね。

境内には熊野水軍出陣800年祭を記念したときに建てられた,弁慶と別当湛増の像があります。
一応,伝説では湛増の息子といわれていますから。弁慶が(笑)。

境内にある大楠。
樹齢は1200年で,県指定の天然記念物となっています。
説明書きによりますと,楠の下に立って葉っぱを歯の患部につけて治りますように,と念ずると治るという信仰があるそうな。

境内には弁慶を祀った「弁慶社」があります。

弁慶社について
西塔の武蔵坊弁慶は中世の傑僧である。その生涯は,悲運の武将源義経に仕え,一の家臣として幾多の危機,苦難から救ったことで知られている。後世,その様子は文学,芸能に表れ,智,仁,勇を体現した日本人の典型として大きな影響を与えた。
出生地について諸説あるが,江戸時代の正徳3年(1713)に刊行をみた「和漢三才図会」では,所説を比較校合した結果,弁慶は熊野三山のべっとう 湛増の子に産まれたとの記述があり,また,当地においては,大庄屋の記録「万代記」に,熊野別当の家系に異形の童子生まれ,幼時に都の公家に養われ,比叡山で修業した子が後の弁慶だと記されている。
田辺地域には,弁慶誕生にまつわる産湯の井度,産湯の釜,腰掛石などの遺物,遺跡が数多く残されている。なかでも,「弁慶松」は,弁慶が奥州衣川で義経を守り壮烈な立ち往生を遂げた報を聞き,その生涯を讃えて地元の人が植えたものと言われている。
弁慶松は初代から五代目まで,片町の一角に植えられており,松の根方に弁慶大神のお社が設けられ,広く市民に親しまれていたが,昭和50年に枯死し,現在,市庁舎前に植え継がれている。
五代目弁慶松の伐採以来,弁慶松の根方にあった弁慶大神のお社は,その後,有志の手により,その精神を引き継ぎ崇め,ひいては田辺生まれの弁慶が将来ともに語り継がれるよすがになれば幸いである。
平成17年9月12日
弁慶社建立推進協議会
弁慶さん,田辺の人たちに好かれているんですねえ…。

闘鶏神社の社務所には,宝物が飾られていて,自由に見ることができます。
見ているだけでにまにまできますよ♪
これは源義経のものだと言われる白龍横笛。
のちに領主によって奉納されたのだとか。
「遙か3」の中でも,ちょうど闘鶏神社(新熊野権現)のシーンで,九郎さんが笛の話をするものがありましたよね。そのときの笛って,この笛がもとになっているのかしら??

コーエーさんって,「大航海時代」に携わった方が逝ってらっしゃいましたけれど,歴史のファクトって結構しっかり調べて作られているとのことでしたので。(そんな講演会があって,仕事の関係で聞いたことがあるのです)

これは別当湛増着用の鉄烏帽子。
思いの外小さい。

弁慶の産湯の釜まであるのです。
もともとは,弁慶生誕の地の石碑がある大福院にあったものだそうです。

そして湛増の鉄扇(笑)

あと1つ。闘鶏神社で印象に残っていることが。
社務所にあるおみくじです。
闘鶏神社独自,というより,びっくりするくらいたくさんの種類があってみているだけで面白かったです♪

作品とのかかわり

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