遙か縁の土地めぐり



梶原氏一族郎党(七士)の墓

景時さんのお邸跡の近くにあった案内板から,梶原氏一族郎党のお墓があることがわかったので,訪れてみることにしました。
が。
これがまたわかりづらい(笑)
住宅地の中にありますからねえ…。
一応,こんな案内版はありおましたけれど,「この奥右」って…!!なんだか, 駐車場っぽいところを入っていかないといけないので,本当にここなの??となりました。

恐る恐る入っていくと,ありました!お墓…!
いやはや…住宅と住宅の間にひっそりとたっておりました。
外からみたんじゃわからん…。

正面からみると,こんな感じ。
傍らには,説明版がありました。

伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓
 この石造物群には次のような言い伝えがあります。正治二年(1200年)正月,梶原景時一族郎党が一宮館を出発,上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので,一宮館の留守居役であった家族,家臣らが弔ったといいます。
 また,景時親子が討死してから,しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が,世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権,所領安堵を願い出たが許されず,七士はその場で自害し,それを祀ったものという説もあります。
 なお,後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。
寒川町教育委員会

こちらがお墓の後ろにあった水路なんだけれども,これのことなんだろうか…。

さらに近くにあった石碑。
案内板よりこちのほうが立派でございました。
「箙の梅」とあります。
景時の息子景季についてのものですねえ…。「箙の梅」ってことは。
確か,生田神社で見たような…。

作品とのかかわり

作品には出てきません

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