遙か縁の土地めぐり



伽羅の御所跡

伽羅御所に行ったのは,平泉2日目のこと。
宿「ホテル武蔵坊」に預けた後,駅までいったん出て,レンタサイクルで自転車を借りることにしました。
歩くこともできないことはないけれど,効率的にいろんなところを回りたいというのがありましたので。ちょっと天気が悪かったので,心配ではありましたが,雨は幸いなことに降っていなかったため,決行!
まずは,11時から義経堂(高館)で法要があるということも聞いていたので,義経堂に向かいつつ,途中にあるさまざまな史跡を回ることに。 というわけで,伽羅御所が最初のポイントです。

伽羅御所は秀衡の住まいだったところ。
んで,ここからは,無量光院が見えた,と。
説明書きにはこうありました。

伽羅之御所跡
この付近は「吾妻鏡」に見える「伽羅御所」跡であります。
「無量光院の東門に一郭を構え,伽羅と号す。秀衡が常の居所なり。泰衡相続きて居所となせり」と,記されています。
藤原氏三代秀衡は北方の王者と言われ,兄頼朝に追われた源義経を温かく迎えます。秀衡の亡き後鎌倉の圧力に耐えかねた四代泰衡は,父の遺命にそむいて義経を討ちます。しかし,鎌倉の本心は義経追討を口実にした平泉の存在そのものにありました。
文治5年8月(西暦1189年),頼朝は28万4千騎という大軍を持って平泉を攻めます。   住む人もいなくなった平泉は,その後野火などによってさすがの栄華を誇った霊塔伽藍も焼けうせ,800年の歳月はわずかに内濠の跡や,土塁の一角をとどめるのみであります。
  元禄2年5月(西暦1689年。平泉の滅亡から500年にあたる)「奥の細道」を旅した芭蕉は「秀衡が跡は田野となりて」と嘆き,「夏草や 兵どもが 夢の跡」の句を詠んだ。

でも,現在は「跡」ということからもわかるように,何も残っていません。唯一とった写真もこれ(笑)
案内板だけですよー。

――正直,どこがなんなのかまーったくわからんかった(笑)。
「入り口」みたいな標識はあったのですが,それ以上のことはなんともー。
というか…気づいたら次の地点「柳御所跡」にたどり着いていた…。

作品とのかかわり

秀衡の住居。秀衡と面会をする
秀衡にこれからおこることを忠告

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